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第352話
それからは、医局でのひと悶着の後を引いている暇もなく、レシピエントの準備が進み、臓器の搬送が行われ、バタバタと移植手術に持ち込まれた。
駆けつけた見学者、日下部千里の件で居座っていたマスコミを必死で追い払うスタッフたち、手術に関わる医師や看護師たちが、それぞれの動きを忙しなくしている中、執刀医である山岡は、凪いだ静かな面持ちでオペ室の前室にいた。
「緊張してる?」
同じく手洗いを済ませ、隣に並んだ日下部が、ちらりとそんな山岡を見た。
「そうですね。この手に掛かる命の重さに、少しだけ震えています」
「そっか」
「はぃ。オペ前はいつも同じ。だけど、今回は…」
手洗いを終えた両手を胸の前に据えて、山岡が少しだけ目元を小さく震わせた。
「原の、言ったこと?」
「そう、ですね…」
ぽつりと呟いた山岡の表情は、それでも静かに凪いで真っ直ぐと前だけを見つめていた。
「日下部先生。オレは、医者なんです」
「うん」
「医者なんですよ…」
ぐっと意志強く伸ばされる背筋を、隣から日下部が眩しそうに見つめる。
「行きましょう」
スッと左右に開く手術室の扉をくぐり、山岡は迷いのない足取りで、その中に進んでいった。
「うん」
同じように手術室内に足を踏み入れた日下部は、無影灯の下に寝そべるレシピエントの身体を見下ろして、フゥーッと深く息を吐き出した。
*
長丁場で行われた手術は、無事、許容時間内に血流再開をすることができ、成功と言える結果を迎えた。
「同時移植、成功おめでとうございます!」
すでに夜も明け、空が白み始めた頃、夜中ぶっ続けで手術に挑んでいた山岡の元に、次々と称賛の声が寄せられていた。
「後は術後合併症が起きないことを祈るばかりだが、取りあえずは成功おめでとう。本当、すごいね、きみは」
ふわりと贈られる賛辞に、山岡はただ困ったように俯いて、小さく首を振るばかりだった。
「部長、それから、他の先生方も」
ふと、オペ上がりでそのまま、訪れるスタッフたちの対応に迫られていた山岡の横から、日下部が気遣うように口を挟んだ。
「ん?」
「いえ、山岡先生、夜じゅうずっとオペをしていて、今、だいぶお疲れだと思うので」
そろそろ、と、引き際を仄めかした日下部に、「あぁ」と今気が付いたように、山岡を褒め称えに来ていたスタッフが、申し訳なさそうに苦笑した。
「そうだったね。うん、今日はこのまま、もう休むといいよ。午前休扱いにしておくから」
ゆっくり寝て、と微笑む光村に、山岡が小さく「ありがとうございます」と述べている。
「お疲れ様です」「失礼します」と去っていく他のスタッフたちを見送り、ようやく日下部が、フーッと人心地ついたように息を吐いた。
その目が、俯いたまま何かを噛み締めるように動かない山岡を見て、ぎゅっと細められた。
その山岡に、先ほどからずっと、部屋の片隅からギラギラと悪意にも似た視線が向けられていることには、山岡も、そして日下部も気づいていた。
山岡たちが出て行った後からずっと、この場で夜を明かしたらしい原のものだ。
出勤時よりさらに赤く腫れぼったさを増した目は、ずっと泣き続け、嘆き抜いた証なのだろう。
その目には、ただひたすらに昏い憎悪だけが、ゆらゆらと揺れていた。
「っ…」
意を決したように、山岡の顔がゆらりと持ち上がる。
「……」
それにつられるように原の身体がふらりと室内奥の床から持ち上がり、日下部の目がそちらに吸い寄せられるように動いていった。
「原」
小さな沈黙を破ったのは、日下部の声だった。
ピクリと一瞬、肩を揺らした原は、それでもその先の行動を止める意志はない。
ペタリと1歩、原の足が山岡の方へ向かって進められる。
ゆっくりと首を巡らせた山岡は、そんな原の姿を静かにその双眸に映した。
「原先生…」
ぽつりと落とされた山岡の声に、原の目がギラリと光る。
その足がさらに1歩山岡との距離を詰め、その口元がゆっくりと皮肉げに持ち上がった。
「成功したんですね。おめでとうございます」
それは、賛辞というよりは、吐き捨てられた憎しみの声だった。
山岡の眉がへにゃりと、困ったようにその端を下げる。
ゆるゆると左右に振られた山岡の頭を、原の射抜くような視線が見つめていた。
「おめでとうございます。あなた方は、無事に、うちの大事な大事な患者様の命1つ、掬い上げたんですね」
「原先生…」
「ご立派です。素晴らしいです。さすがは先生方だ。うちの患者様の命を、無事に繋がれた」
パチパチと、皮肉な拍手の音を立てながら、原の口はドロドロと悪意に満ちた言葉を吐き出し続けた。
「さすがは山岡先生。さすがは、日下部先生です。あなた方は…っ」
ゆらりと、原の周囲の空気が、どす黒く染まった。
その黒いオーラが、ぶわりと巻き上がる。
「人1人の命と引き換えに、救った」
どろりと吐き出された真っ黒な言葉が、山岡に、日下部に、いやらしく巻きついた。
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