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第353話
ひゅっ、と息を呑んで固まった日下部の隣で、山岡はただ静かにその言葉を受け止めた。
スゥッと原の憎悪を吸い込んでしまったのは、山岡が纏う静謐な空気だ。
きぃ、と事務椅子を巡らせて、身体ごと原と相対した山岡は、凪いだ表情のまま、憎しみに瞳を燃やす原を見つめた。
「っ!あなたが…っ、あなたがしたことはっ…」
僅かも動揺を見せなかった山岡に、原の瞳の方がグラグラと揺らいで、ガバッと残りの距離を一気に詰める。
「あなたがしたことはっ、あんな風に、評価され、称賛されることなんですかっ?」
「……」
「どうしてっ。どうして?おれには分からない。分かりませんっ。どうして、こんなことが評価され、称賛されるんですか」
「そうですね…」
「だってあなたがしたことはっ、人1人の命を見限って、別の命を1つ救った。脳死患者の動いている心臓を止めてっ…移植が必要な患者のために、その身体から臓器を奪い取ったんだっ」
「原…っ」
ぐいっ、と山岡のスクラブの胸元を掴み上げてグラグラと揺らした原の手を、日下部が怒鳴りつけながら引っ剥がした。
「は、なせっ…。だってっ、どうして、それがっ…みんなにあんなに褒められて、称えられることなんだっ…」
日下部に掴まれた腕をぶんと振り払い、原が涙でくしゃくしゃにした顔をぐしゃりと歪めて、ふらりと足を引いた。
「これが外科医ですか…?」
「原先生…」
「これが外科医なんですかっ?こっちに機能しない臓器があれば、あっちから持ってきて…切って繋げて殺して生かして…っ」
「原ッ…」
「これが外科医なんだったら…それが医者だと言うんなら、おれは、おれは、医師になんかならないっ!こんなとこ、やめてやるっ…」
うぅぅ、と泣き声を漏らしながら、ふらふらと後退っていく原の足が、ある程度の距離を開けたところで、くたりと力を失くす。
そのまま重力に従って、ペッタリと床に座り込む原を、日下部が悔しそうに、そして山岡がただ静かに真っ直ぐ見下ろした。
きゅっ、と床に摩擦音を響かせて、山岡の身体がふわりと椅子から立ち上がる。
「っ…?山岡先生?」
どうするつもりだ、と視線を巡らせる日下部に、山岡は凪いだ表情のまま、緩やかに口元を綻ばせた。
きゅっ、きゅっ、と迷いなく原との距離を詰めていく山岡の足が、原が座り込んだ床の目の前までたどり着き、ぴたりと動きを止めた。
「原先生」
スゥッと、この場の空気、全てを支配下に置くような、山岡の凪いだ静かな声だった。
「っ…?」
弾かれたように、原の泣き濡れた目が、ふらりと山岡に向かって持ち上がる。
「やめましょうか」
「……え?」
「外科医。原先生の言う通り、やめた方がいいです」
ふわり。
悪意も、悲しみも。憎しみも、皮肉もない。淡々とした柔らかな言葉が、するりと山岡の口から落とされた。
「おいっ、ちょっ、山岡先生っ?」
何を言い出すんだ、と焦った声を上げたのは日下部で。原は、ただぼんやりと、目の前の山岡を見上げている。
「原先生。今が、これが、受け止められないのなら、あなたは外科医になるべきじゃない」
きっぱりと、優しさも、厳しさも両に含んだ声色を響かせながら、山岡はただ静かに、足元の原を見下ろした。
「山岡、せんせい…?」
「あなたは、どうやら外科医を、万能の神か何かだと思っているようですから。だったらあなたは、外科医になんてならない方がいい。なるべきじゃないんです」
ふらりと、ようやく瞼を震わせ、瞳を伏せた山岡に、原の口元がふるりと震えた。
けれどもその口は、なんの言葉も作れずに、途方に暮れたようにふにゃりと閉じていく。
その隙は、ゆっくりと息を吐き出した山岡の、覚悟を決めたような、深い漆黒をした瞳の静けさに奪われていった。
「オレは…もしもオレは、誰かと日下部先生が、同時に瀕死の重体で、けれどもほんのわずかな差があって、日下部先生の命を諦めれば、もう1人の命が助かる状況になったとしたら」
「っ…」
「オレは、容赦なく日下部先生に黒札を切って、もう1人の救命に手を尽くします」
「っ、あ、なた、は…」
冷然と、はっきり言い切られた山岡の言葉が、ぐさりと原を突き刺した。
黒札。それは複数名の傷病者が出た場合に、重症度、処置の優先度を選択する、トリアージにおける、トリアージタッグ――軽い方から緑、黄、赤、黒と振り分けられる4色中の、「救命不可能」を示す色のタグのこと。
端的に言えば『死亡』と選別されることを意味する、黒札。
「っ、あなたはっ…」
迷いのない山岡の言葉に、揺らいだのは原の瞳だった。
「はぃ。オレには、救えません。残念ながら、現代医療では、どうにもならない命を前に、それをこの手に掬い上げることは…できません」
「っ…」
「それが、たとえどんなに、愛しい人の命であっても…っ」
「っ、ぁ」
「けれども後1歩、この手を添えれば助かる命があるのなら、どうにもならない命の方を切り捨てて、そちらに必死で手を伸ばします」
「や、まおか、せん、せ…あなたは」
「それが医者です。オレは、医者です」
きっぱりと、真っ直ぐ前を見て言い切った山岡の目には、涙の膜が張っていた。
「っ…」
くしゃくしゃに、原の顔がその形を歪める。
山岡は、その目を真っ直ぐ見下ろして、ふわりと微笑んだ。
「原先生、あなたはオレに言いましたよね。人でなし、と」
「っ、そ、れは…」
「本当に…本当に、オレが人でなかったらっ…もしも神ででもあったのならっ、2つの命を、同時にどちらも救えたのかな」
「っ…あぁぁっ」
「もしくはオレが、本当に人でなかったら…」
穏やかに、緩やかに、美しく微笑んだままの山岡の両目から、はらりと透明な雫が滴り落ちた。
「こんなに苦しくも、こんなに悲しくも、こんなに辛くもなくて済んだのかな…っ」
ぽたり、ぽたりと目の前に涙の染みを作っていく、山岡の身を切るような叫びを耳に入れ、原はただ、ぐしゃりと拳を握り締めた。
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