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第354話

「原先生…っ」 ストンとその場に足を折った山岡の、膝がコツンと床に触れる。 ポロポロと流れ落ちる涙の雫が、その膝の上で固く握り締められた山岡の手の甲を濡らした。 「っ、だけど、だけどオレは、残念ながら人で。残念ながら医者なんです」 「あぁっ、山岡先生っ…」 「目の前の零れ落ちていきそうな命、1つ。ただ1つしか、この手に掬えない」 「っ、う、ぅ…」 「救う手段があって、救う条件が揃って、ただそれを知識と技術と経験で繋いであげる…。たったそれだけしか出来ない。無力で、ちっぽけな、医者なんです」 零れ落ちる涙をぐ、と抑え込み、唇を噛み締めて激情に耐える山岡の、雫の跡を残した拳が持ち上がる。 「小さな小さな手なんです」 「っ…」 「あれもこれも何もかもを、全部掬い上げることができるほど、大きな手ではないんです」 パッと開かれた山岡の手に、それでも掬い上げられた命はどれほどあるのか。 「そうでなければっ…あっちもこっちも欲張ってこの手にかき集められるだけかき集められたならっ、どんなに、良かったか…っ。だけどそれをしたら。そうしてしまったらっ、本当は救えるはずだった1つの命さえも、取りこぼしてしまう。あっちもこっちも何もかも全部、このちっぽけな手に掬い上げようとしたのなら、この手に収まり切らなくなって、全部がぽろぽろと零れ落ちていってしまうから…っ」 「っ…」 「オレに掬えたのは、レシピエントさんの命だけだった…っ」 ずい、と突き出された山岡の手のひらを、原はぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔で、真剣に見つめる。 小さく震えるその指先は、山岡がもう落とすまいと堪える涙を、必死で飲み込んでいるせいだ。 「それが許せないのなら。受け止められないのなら。あれもこれも何もかも全部、掬い上げることが出来るのが医者だと思うのなら、辞めた方がいい。いつかその現実に、心底絶望する前に。その認識と現実の誤差に、打ちひしがれて、心を壊してしまうその前に。この場から去っていった方がいいです」 泣き濡れた原の頬に、突き出した手のひらをそっと持ち上げ、鮮やかにメスを揮うその指先が、優しく涙を掬っていく。 「医者はね、原先生。ただ、患者さんの生命力に手を添えて、そっと手助けしてあげる。ただそれだけの力しか、持たないんですよ?」 神じゃない。万能じゃない。人でないわけではない。 だから。 尽きて行こうとしている命には何も出来ない。生命力を失ってしまった命の前には、なす術もない。 だからこそ、掬える命のために、使える手段があるのならば、躊躇わずにそれを執行する。 それが医師だと、オレのやり方だと堂々と言い放つ山岡に、なんの筋も信念も持たない原の感情などは、太刀打ちできるはずもなかった。 「落とした命を嘆くのは、同じ症例、同じ状況、同じ条件でその命を掬い上げられたときにやりなさい」 「っ…?山岡先生…?」 「落とした命を悔やむのは、己の腕の至らなさで、取りこぼすしかない選択を突き付けられたときにしなさい」 朗々と、不意に紡がれる山岡の声に、原の嗚咽がぴたりと引っ込んだ。 「落とした命は、ただただ己の胸に刻み、その傷と共に、そこから多くの命を掬いなさい」 「っ…そ、れは」 「オレの師が、オレに伝えた言葉です」 「っ、あぁぁ…」 「オレは、現段階で、オレに救えない命があることを認めています」 「っ、あぁっ」 「その、命が、救えなかったことの責任は、悔しさは、オレだって持たないわけがないんです」 「っあぁぁぁぁぁっ!」 「それでも。それでもっ…。オレは、医者だから…っ」 「山岡先生っ…」 「救いたかったっ。だけど掬えなかったっ。里見先生の命を、一生、決して、忘れずに。それでも、救えた命を数えながら、前を向いて、歩いて行くんです」 ぎゅぅ、と両側から原の頬を包み込んだ山岡の手のひらは、熱く、強く、震えていた。 「いつか、自分自身を責めるために」 「っ…!」 「いつか、同じ症例、同じ状況、同じ条件下で、その両方の命を掬い上げて」 「っ…」 「今日した片一方の諦めの選択をっ、次はしなくてよくなった自分の、かつてを憎んで…っ、それと共に、救えた命を喜んで、落とした命を、一生忘れず、背負い続けるために」 「っ、あぁぁぁぁっ」 「オレは、医者でいる」 凛然と、空気をシャラリと揺らして放たれた山岡の言葉に、原がひくりとしゃくりあげ、日下部が深く目元を覆った。 「原先生には覚悟が…。なんの覚悟がありますか?」 「っ、おれは…おれは」 「あなたはきっと、伝わる人だ…」 するりと床から立ち上がり、ふわりと目元を綻ばせた山岡に、原の嗚咽が、号泣に変わった。 何度も何度もしゃくりあげ、「ごめんなさい」と繰り返すその声を、ふらりと動いた日下部が、身体ごと全部抱き締めた。 いつまでもいつまでも泣きじゃくる原の声が、医局の空気を長く震わせていた。

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