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第355話
*
柔らかな静寂が、すっかり日の昇った医局内を優しく包み、スヤスヤと穏やかな寝息を立てる原の横顔を、薄っすらと撫でていた。
「はぁっ。なんで、夜じゅうオペをして疲れているはずの山岡より、こいつの方が先に寝落ちているんだよ…」
ピンッ、と、その安らかな寝顔の額を、意地悪く弾くのは、同じく徹夜の日下部の指先だ。
「あはは。原先生もきっと、眠れない夜を過ごしていたんでしょうから。ようやく…ようやく、張りつめていた糸が、切れたんですよ」
「まったく…。泣き喚いて泣き疲れて寝落ちるとか、どこの子供だ、こいつは…」
ふぅっ、と吐き出される溜息は、それでも幾分かの安堵を含んでいて。
「子供でいられる。医師としてはまだまだひよっこで、親鳥の導きがないとすぐに道に迷って…」
「はぃ。けれどもこうして1つ1つ、辛く重い現実を目の当たりにして背負いながら、1段1段大人への…一人前の医師への階段を上っていくんですね」
「うん…」
額を弾いた手をふわりと頭を撫でる手に変え、日下部が薄く目を細めてその寝顔を見下ろす。
「引き際か」
「え…?」
「子供で…俺の研修医で、こいつのことを居させるのは」
「日下部先生…?」
ふふ、と可笑しそうに目を細めて、日下部は小さく肩を揺らした。
「言ったよな。一番甘やかしているのは俺だって」
「……」
「手放そうと思う」
「えっ?」
「おまえに静かに諭されて、自らを見つめ直したこいつを見ていてそう思った」
「っ、日下部、先生…?」
ゆるゆると、原の頭を撫でる日下部の、静謐な空気に気づいて、山岡はふるりと唇を震わせた。
「こいつには、俺だけじゃない、もっともっと多くの医師に、触れさせるべきだと思った」
「…っ、そう、ですか」
「うん。もっと多くの価値観に、信念に、医師の姿に」
「……」
覚悟を決めたように、けれども離れがたそうに原の頭をいつまでも撫で続ける日下部に、山岡はただ静かに首肯を返した。
「ここだけがすべてじゃない。もっと多くの症例、アプローチ方法、治療方針。広い世界を泳がせて、広い世界をその目に見せて。たくさんの経験をこいつに積ませて。俺の足跡がなくても歩いて行ける、そんな医師にしなくちゃいけないと思った」
「…はぃ」
「そううして原が、原だけの信念と誇りを持った医師として、その足で1人で、立つのなら。医師でありたいと望んだのなら。俺はそのとき『おかえり』と笑って、こいつを迎えてやるんだ」
「っ、はぃ」
ゆるりと1つ、原の髪を最後まで名残惜し気に撫で上げた日下部の手が、そのままふんわりと離れていった。
「俺の手の中で甘やかして、俺の後をついて歩く研修医(こども)でいさせるのは、今日で終わりだ」
「っ…」
「まずはER」
「っ…日下部先生」
「うん。それから、小児科。心臓外科に脳外科」
「っ…」
「ギネにも行かせようかな?」
ふふ、と軽やかな笑みを浮かべるその口元は、けれど手放す寂寥に震えていることが、山岡にだけは分かっていた。
「スーパーローテーションに戻すんですか?」
「いや?」
クスクスと、笑い声を上げた日下部の目は、とても悪戯っぽく光っていた。
「他科に『預け』て、『揉ませて』くるだけだよ」
「っ、預けるって…」
「だってこいつの『ホーム』は、もうここだと思うから」
「っ、日下部先生…」
「そうして、原が、研修医(こども)から抜け出して、一人前の医師(おとな)になることを…。自らの信念を持ち、自らどんな医者でありたいかを確立し、いつか胸を張って『医師の原です』と、『ただいま』と、笑ってその手を差し出してくれることを、俺は俺で、正しく医師でありながら、ここから願っているよ」
「日下部先生…」
「俺の、親鳥業は今日でお終いだ」
「っ…」
声を詰まらせる山岡に、日下部は清々しく、晴れ晴れと微笑んだ。
「ようやく、子離れできそうだよ」
ふふふ、と嬉しそうに目元を緩ませた日下部の、その瞳の奥だけが、「寂しい」「心もとない」と叫んで揺れていた。
「っ~~!日下部先生っ」
がばっと抱き付いてしまったのは、もうほとんど反射だった。
山岡の体当たりに近い抱擁を、日下部はゆるりと受け止める。
「クスクス、おまえから、職場で、こんな風に抱きついてくれるなんて」
「っ、もう、何言ってるんですか」
「格好良かったよ」
「え…?」
「原の暴言、暴挙をするりと受け止めて、原の嘆きを全て吸い込んで。その上で凛然と立っているおまえが」
ふふ、と熱く上ずった吐息が、山岡の耳に吹き込まれる。
「んっ、ぁ…」
「己の信念を真っ直ぐ語り、凛として医者でいるおまえが」
「っ、あぁ、日下部せんせっ…」
ふぅっと耳を撫で上げ、首元に移ろっていく日下部の熱い吐息に、山岡はゾクゾクと身を震わせて、その腕の中で身じろいだ。
「なぁ、山岡?」
「っ、あ、え、何ですかっ?あっ、日下部、せんせ…」
「おまえが、さっき言っていた言葉」
「あっ?な、に…?」
するりと山岡の身体に手を這わせ、妖しく指先をうごめかせる日下部に、山岡の息がハッ、ハッと上がっていく。
「俺と誰かが同時に瀕死になったとき」
「っ…?」
「おまえは俺の命を、きっぱりと諦められるって」
「えっ?あっ、それ、やぁっ…」
つぅーっと肩甲骨の間、背骨を通って尾骶骨にたどり着いた指先に、山岡がぶるりと身体を震わせた。
けれどもそれは、日下部の悪戯な指先だけのせいではなくて。
ずしりと重く、恨めしそうに響いた日下部の言葉のせいでもあった。
「おまえは助からないと決まった俺の命を、きっぱりと切り捨てて、次へ向かって行けるんだな…」
クスリと喉を揺らした日下部の言葉が、山岡の脳をジーンと痺れさせていく。
「おまえの医者としての信念に、俺は完敗だ」
ははは、と笑い声を上げた日下部の言葉に、山岡は上気させていた頬を、くしゃりと歪ませた。
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