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第356話

「っ、オ、レは…」 へにゃりと情けなく眉を下げた山岡の顔を、日下部は穏やかにそっと覗き込んだ。 「うん」 「オ、レは…そういう、医師です」 「うん」 こくりと頭を上下させた日下部の、その目がふわりと複雑な色を添えた。 「も、しも…もしも『その時』、救命不可能とされる日下部先生の命を優先してっ…」 「うん」 「もう助からないのに、諦め悪く最後の最期までCPRを続けて…」 「うん」 「そのせいでっ、本当は救えるはずだった、もう1方の命を落としてしまったら…っ」 「うん」 くしゃりと歪めた唇を震わせて、山岡はそろりと目の前の愛おしい人の頬に手を伸ばした。 「オレは、医師としてのオレを許せない…」 「うん」 「医師としてのオレを、オレが殺してしまうからっ…」 「うん」 ふわりと優しく日下部の頬に添えられた山岡の手の指先が、ふるりと小さく震えた。 「それが、オレの在り方で…。だからオレは、あなたの命を…っ」 最後の言葉は嗚咽に途切れ、形作られることはなかった。 「さすがおまえだよ」 「っ…」 「それが、おまえだよ。目の前にある今にも零れ落ちていきそうな命、1つ。それをただ、ひたすらひたむきに掬い上げようともがく」 「っ…ん」 「救える命が、その手段があるのなら、何をおいてもその1個を掬い上げる」 「っ、ん…ぁぁ」 ふにゃりと泣き顔を晒し、必死で日下部を見上げる山岡に、日下部はふわりと、優しく穏やかに微笑んだ。 「真っ直ぐ、迷わず、ただひたすらに、命に対して正面から向き合う、医師のおまえが」 「っ…」 「尊くて、少し恨めしくて、そして憎くて…。だけどやっぱり、とても尊い」 「く、さかべ、せんせ…」 「迷わなくていい。それが、医者だから。それが、山岡泰佳だから」 ぎゅぅときつく、抱き締められてようやく、山岡の口から、泣き声が迸った。 「あぁぁぁぁっ、日下部っ、せんせ…っ」 「うん。うん」 「本当はっ、本当は嫌ですっ…諦めなくちゃならない命があるのもっ、それが、愛しい人のものであったら、なおさらっ…」 「うん」 「救えた命を誇りには思うけれどっ…だけどみんなに、あんな風に褒められるのは、本当はっ、辛い…ですっ」 「うん」 ぎゅぅ、と益々強く、抱き締める腕に力を込める日下部は、山岡が入れ代わり立ち代わり与えられる、賛辞の言葉に1つとして、礼を述べなかったことに気づいていた。 「オレは…っ、オレがレシピエントさんの命を救ったのは、間違っていない」 「うん」 「原先生のように、ドナーの命を惜しんで移植手術を諦めたところで、うちが断ったところで、別の誰か…別の…待機順位2位の人のところに、話が持って行かれるだけだ」 「うん」 「ならばうちが。うちのレシピエントさんが、命を繋げたことは…。健康な身体を取り戻すことができたことは…っ、正しく、最良の結果です。ですけど…」 「うん」 「それを褒め称えられれば褒め称えられるほど…その陰で失われた1つの命が、重くて重くて仕方ないっ。この手に触れた臓器は、まだ生きていた…っ」 「うん」 はらりと零れ落ちる山岡の涙が、キラキラと瞬いて床に砕けていった。 「忘れません」 「うん?」 「忘れません。オレが、1つの命に諦めの選択を望む治療方針を取ったこと」 「うん」 「忘れません。その上でオレは、1つの命を掬い上げたこと」 「うん」 「何もできなかった…。生きたいと、笑った里見先生に。なにもしてやれなかった。なんの力にもなれなかった…っ、そのことを」 「うん」 「生きたいと笑った彼女に、っ、目を瞑るしか出来なかったことを」 うぇっ、と上がる嗚咽を、日下部はただただ腕の中に閉じ込めた。 「俺も、忘れない」 「ふぇっ、はぃ…っ」 「だけど、山岡。1つだけ。1つだけ」 「……?」 「出来たよ」 「…え?」 「してあげた」 トントンと、あやすように背中を叩く日下部が、腕の中で震える身体を見下ろして、ふわりと微笑んだ。 「ちひろ…?」 ふぇ?と泣き濡れた目を向ける山岡は、解を見つけられずに戸惑う子供のようで。 「してあげたよ、山岡先生は」 「日下部せんせ…?」 「これを言ったら綺麗事だけど。そんなことは分かり切っているけれど、だけど」 「日下部先生…?」 「生きたい、って。生きるって、言った、里見さん」 「はぃ…」 「生きているよ」 「っ…」 「生きているよ。どこかの、誰かに運ばれていった、身体の中で」 「っ…」 「生かせて、あげられたよ。うちかもしれない。うちのレシピエントさんかもしれない、身体の中で」 「っ…!」 「他の全国各地に贈られた里見さんの臓器(いのち)は、受け取ったレシピエントさんたちの命と、一緒に。生きてる」 ぶわっと涙の膜を破り、「うわぁぁぁん」と声を上げて泣きじゃくる山岡を、日下部は必死で掻き抱いた。 「ドナーカードは…臓器提供意思表示カードは、里見さんの、遺志(ねがい)だから」 「っ、あぁぁぁ」 「おまえのような、確かな腕を持つ医師が、それを叶えてあげられた」 「っ…」 「この手が、してあげた」 忘れるな、と笑う日下部の目元も、切ない雫で光っていた。 「っあぁぁぁ、日下部先生っ。千洋っ」 ぎゅぅ、と抱きつく山岡を、いい子、いい子とあやしながら、日下部はその押し付けられる身体を強く抱き止める。 「泰佳」 ふにゃりと持ち上がる山岡の視線を捕らえて、日下部は真っ直ぐその目に自分の目を向けた。 「あぁ、千洋…」 ふんわりと緩んだ漆黒は、何もかもを飲み込み尽くして、なお輝きを失わない深い黒色をしていて。 吸い込まれるように顔を近づけた日下部は、その目にポツリと小さな波紋が広がるのを見た。 緩やかに、まるでそこに向かうことが当たり前のことだと言うように、日下部の唇と、山岡の唇が自然と重なっていく。 「んっ、はっ…」 「泰佳。泰佳、愛してる。愛してるっ…」 何かを分け合うように、埋め合うように、2人は口づけを深くする。 互いを貪り、互いに慈しみ、互いの体温を確かめ合いながら。 「んっ、あっ…ここ、いきょ、く…」 「あぁ、原が物音で目を覚ましちゃうかな?」 クスクスと笑う日下部に、ぐしゃりと眉を顰めた山岡が、冗談じゃないと必死でその身体を押し戻そうと腕を突っ張る。 「あっ、ん、駄目です、ってば、千洋っ…」 「ん~、じゃぁ、当直室にでも移動する?」 「やっ、あっ、だ、から、職場…っ」 「でもほら、午前休にしていいって光村先生も言っていたし。こんな朝っぱらから当直室に来るようなサボリ魔、いないよ」 「でっ、も…」 するりとスクラブの裾から滑り込んでくる日下部の悪戯な手を、必死で掴んで止めながら、山岡がフルフルと首を振った。 「クスクス、でもほら、もう止められないでしょ?」 「っ~~!意地悪ですっ」 「じゃぁさ、空きの病室とか…処置室でも探す?」 ベッドがあればどこでもいい、と言わんばかりの日下部に、山岡はますます強く首を左右に振った。 「だっ、から、院内って選択肢は…」 「だぁってこれから外に出るっていうのも…。あっ、それじゃぁ、あの人を1時間ばかり追い出そうか」 「え…?」 「上。あそこなら、音漏れないし、ベッドも他に比べたら破格だよ」 なぁ?と悪戯っぽく目を細める日下部に、山岡は何を言われているのかを察して、カァァッと頬を赤くした。 「お、とうさん…っ、追い出すとか、何言ってっ…。しかもお父さんの、ベッドって…っ。それに特別室を、そんな用途に…っ」 「だって『特別』室でしょ」 「意味が違いますっ!」 キリキリと、瞳の端を吊り上げて怒る山岡に、日下部がクスクス笑ってその身体を抱き上げた。 「んな、ちょっ…千洋っ!」 「これ以上うだうだ言うと、ここで抱くぞ」 「っ~~!」 「嫌なら諦めろ」 「やっ、もっ、わ、かった…」 「ん?」 「分かりましたからっ!お父さん、追い出すとかやめて…っ、当直室!仮眠室のベッドでいいですからっ…」 どうあっても続きを諦めないらしい日下部に、白旗を上げたのはもちろん山岡の方だった。 「ふふ、俺は諦めが悪いからね」 「千洋?」 「諦めが悪いから…おまえの目の前で、うっかり瀕死になっても」 「ちひろ…?」 「俺は、絶対におまえの足手まといにはならないよ」 「っ…」 「諦め悪く、最後の最後の最期まで、生にしがみついて、生きて、生きて、生き抜いてやるから」 「千洋っ…」 「おまえに俺の命を切り捨てさせる選択肢を、絶対に与えはしないから」 絶対……。 それが山岡たちの仕事では決してないことを、2人とも分かっていた。 あり得て欲しくないそのときが、もしかしたら訪れる日があるかもしれないことを。 それでも。 そのときは。 『互いに最後の最期まで、医師である自分を捨てることはない』 言葉にならなかったその思いは、日下部と山岡の共通の認識だ。 尽きゆく命をそっと置いて、救える命に向かっていく。その、眩しく白い医師の背中が、互いの瞳に、きっと頼もしく映るから。 「それでいい」と微笑み頷く山岡の腕が、するりと日下部の首に回される。 チュッと添えられる軽やかなリップ音は、山岡のつたない誘い文句で。 「っ~~!泰佳っ」 「ふふ、千洋」 これで共犯です、と弧を描いた山岡の目元を瞳に捉えて、日下部は乱暴な足で医局のドアを蹴り開けて、仮眠室への廊下をズンズンと歩いて行った。

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