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第359話

「っ!」 ガバッと目を覚ましたときには、日下部の姿がもうそこにはないことに気が付いた。 「オレっ…どれだけ寝てたっ?」 まずい!と身体を起こす山岡は、慌ててパタパタとベッド上の枕元を探す。 「あ、れ…?あっ、そうだ。PHSもスマホも医局に置きっぱなしで…って、うわ」 ハタと気づいて見下ろした自分の身体は、素っ裸の上に白衣が1枚。 ドロドロに汚したはずのシーツやスクラブは片づけられ、腹に散らした覚えのある白濁も、綺麗に拭われていた。 「あ~、日下部先生か…」 甲斐甲斐しく後始末をしてくれたらしい恋人に、へにゃりと顔が緩んでいく。 けれども近くのソファの上に置かれた着替えには、苦笑しか浮かばなかった。 「わざわざオレのロッカーからワイシャツとズボンを持ってきてくれたのはありがたいんですけど…」 はぁっ、と零れ落ちる溜息は、まったく、どこかSっ気のある日下部を思い浮かべてのものだ。 「ここまで世話を焼いておいてくれながら、最後の最後がこれって…」 裸のまま、白衣一枚掛けられていた身体を見下ろす。 ここまでしたのなら着替えまでしておいてくれればいいものを。 「さっきまで何をしていたか忘れるなよ、ってことか…」 日下部先生らしい、と笑った山岡は、はたとさらにそこで気が付いた。 「っ!鍵!」 日下部と共に当直室に入ってきた。その日下部が、一足先に今はいない。 中には山岡が1人。 つまりは日下部が出て行ったドアに、鍵をかけた人間はいないということで。 サァッと青褪めた山岡は、慌てて服を身に纏い、ぐらりと揺れる足腰を必死で踏ん張りながら、入り口のドアに飛びついた。 ガチャッ…。 案の定、ドアノブを下げただけであっさりと扉は開き、そんな空間に素っ裸で寝かされていたことに、恐怖と文句が湧き上がる。 これは苦情の1つも言ってやらなければ、と意気込んで、ガチャリと部屋の外に出て扉を閉めた山岡は、ふと、頬の横をなにかの紙が掠めたのを目に止めた。 「え…?っぷ、これ…」 何なのだと振り返って当直室のドアを見れば、適当なプリント用紙に黒太マジックででかでかと書かれた文字が数行目に入る。 『山岡先生仮眠中。起こすな、開けるな、入室厳禁。破った者は…』 「…破った者は、なんですか、日下部先生…」 ずももも、と、日下部の威圧が滲み出るような、真っ黒いオーラを纏った張り紙に、山岡は思わず吹き出した。 「脅しの先が書かれてませんけど」 見た者が自分で想像しろということだろうか。 対外的には温厚で人がいい、イケメン医師日下部千洋を演じているけれど、確かに消化器外科病棟に限れば、山岡は俺のものオーラを読み取るのは容易いだろう。 「本当、何やってるんですか…」 恥ずかしい、と思いながらも、裸で放置の自分を守ってくれていたらしい張り紙を、山岡は丁寧に剥がしてそっと折りたたんでポケットに入れた。 「まぁ、こんなことするくらいなら、服を着せていってくれればよかっただけの話な気もするんですけど…」 一体何を考えているのかよくわからない日下部に首を傾げて、山岡は、その行動の矛盾振りを責めるべく、医局に足を向けた。 「っ…」 ふと、医局の前までたどり着いたとき、中から人の話し声が2つ、漏れ聞こえていることに気が付いた。 「……?」 この中はある程度防音じゃ?と疑問に思う山岡は、ふと、医局のドアが少しだけ閉め損ねられていることに気が付いて、ふらりと足を寄せた。 『申し訳ありませんでした』 震える声で、それでもはっきりと漏らされた言葉は、どうやら目を覚ましたらしい原のものだ。 ぺっこりと深く、頭を下げたのが想像できる、真摯で真剣な声色だった。 『うん。きみは、先輩医師に楯突いただけでなく、きみが好きになった…その行動を起こして親しくなった友の命を、軽んじた』 ビシリと冷たく厳しく響くのは、どうやらその原と対峙しているらしい日下部のもので。 白衣の裾をひらりと揺らし、腕組みでもして原を見下ろしているだろう姿が、容易く目に浮かぶ。 『っ…』 原が息を詰める音が微かに漏れ聞こえ、するりと日下部が起こしたのだろう衣擦れの音が響いてきた。 『なぁ、原元一くん?』 コツリ、と、机か何かを叩いた、日下部の指先の音が聞こえてきた。 ピリッと医局内どころか、外の廊下で盗み聞きをしている山岡の辺りまで、空気が張り詰める。 ごくりと原が唾を飲み込む音が聞こえるような気がしたのは、山岡が同じく唾を飲み込んでいたからだった。 (なにを、言うつもりなんだろう…?) そろりと窺う医局内は、開いた隙間が狭すぎて何も見えない。 こっそりと気配を殺しながら、日下部の次の言葉を待っていた山岡の耳に、リン、と鈴が鳴るような、凛然とした日下部の声が響いてきた。 『ドナーカード。これには一体、どんな意味があると思う?』 トン、と沸き起こった小さな音は、日下部が実際にそれを机か何かに置いて見せたのか。 『っ…』 やっぱり原の、瞬間的に息を鋭く飲み込んだ音が聞こえる。 『ん?』 『っ、そ、れは…』 『うん』 ぐしゃりと強く、拳を握り締めたんだろうなぁ、という原の姿が容易く想像できて、山岡はぼんやりとその横の壁に背を預けた。 『意志なんだよ。意志なんだ。自分の死を真剣に考えて、そのとき自分は最期に何を望むのか。生前に、ひたすら真剣に自分がいつか死ぬということに向き合って、自分が逝くそのときを、いくつもシミュレーションして、リアルなこととして考えて、出した答えが、このカードだ』 『っ。ぅ、はいっ』 『誰だって、自分が死ぬことなんて考えたくないよ?その瞬間をリアルに想像したことがある人間はどれだけいるだろう。怖いよな。死んだら自分がどうなるかなんて考えるのは。だけど彼女はそれをした。人は必ずいつか死ぬから。そのときの、自分のことを』 『っ…』 『老衰、病死、事故…。色々な可能性を考えて。そしてふと辿り着いた。脳死?』 『っ、は、いっ』 掠れて震える原の声は、それが溢すまいと堪えている涙の証のようだった。 『自分に降りかかる可能性がないとは言えないよな。そういえば保険証の裏にも、その意思表示欄があったなぁ』 『っ…』 『あぁ、もし自分が脳死になったら。自分は一体どうするんだろう』 『っ…は』 『遺していく家族は。自分の選択を許してくれるだろうか。受け止めてくれるだろうか』 『っ、ぅぁっ…』 『怖いな。死んだ後とはいえ、分からないだろうとはいえ、身体から臓器がとられていくのは…どんなことなんだろう。だけど』 『っ…』 『周囲のみんなに、本当に本当に辛い選択をさせることになるだろうけど…それでも、それでも』 『っ、はっ、い…っ』 『この臓器(いのち)が誰かの希望になるのなら』 『っ…』 『この命を、最期まで使うことが出来るのなら。どうか使って下さい。この臓器(いのち)でよかったら、受け取ってください。生きてくれますように。少しでも多くの人が、病に脅かされることがなく、病に怯える日々から解放されて、命を繋いでくれますように』 『っあぁぁぁ…っ』 『彼女の、尊い、尊い願いなんだ。自分の命をこれでもかというほど真剣に考えて、ペンを取ったんだ。彼女が遺した、最期の願いなんだ。とことんまで命と、そして病と、患者と向き合う。1人でも多くの人を、病から救いたい、助けたい、彼女もまた、誇り高い薬剤師だった』 『っ…ぐ、ぁ…っ』 『それをきみは、自分の悲しみを優先して、その思いを踏みにじったんだ』 ずしりと重く、物理的な力すら感じる日下部の声に、原の声に水気が混じった。 『なぁ、原。山岡先生が何故、きみを見学から外したか、分かっているか?』 『っ、それは…』 不意に、日下部の口から自分の名が漏れ、山岡はピクリと肩を揺らした。 『あの瞬間、きみが、医師でなかったからだ』 『っ…あぁ…』 へなりと崩れ落ちる原の姿が目に浮かび、山岡はフゥーッと長く息を吐いた。 『きみは、ドナーの臓器(いのち)も、レシピエントの命も、どちらも軽んじた!』 『っ、ぅ、くっ…』 『自分が死んでも誰かの命に手を添えたいという覚悟(おもい)と、誰かの命を背負う覚悟で生を選んだ患者の願い(おもい)を。両方同時に踏みにじった!手放したんだ!』 『っ、く…ん』 ポタン、と、廊下の外には聞こえるはずのない、水滴の落ちる音を、山岡は確かに聞いていた。 『去れ』 『え…?』 『去れ。2度目だ』 『っ、ぁ…』 『俺がきみに、感情を優先させて、患者の命を蔑ろにするところを見せられるのは』 『っ、日下部先生っ…』 うぁっ、と泣きじゃくり、日下部に縋る原の姿が想像できた。 『2度目はない。俺は降りる』 『っ…日下部先生っ』 『きみのオーベンは、もうやれない。もうきみには付き合い切れない』 『そんなっ…』 『出て行け。大丈夫、部長には俺から話を通すし、希望の科、どこにでも紹介してやるから』 『待ってっ、そんなっ、日下部先生っ…』 ずり、と聞こえたのは、原が床にへたり込んだまま、日下部ににじり寄った音だろうか。 パッと軽やかに身を引く日下部の姿は、簡単に想像できた。 『出て行け。もう俺がきみのオーベンなのも、きみが消化器外科研修医であるのも、終わりだよ』 コン、と机を静かに叩いた音は、ドナーカードの角だ。 きっと日下部の記名がなされている、1番に丸がつけられているだろうカード。 臓器名にバツは1つもない。特記欄には「すべて」の文字。 山岡のIDカードと一緒にしまってある、緑のカードとおんなじ表記だろうそれの音が、軽やかに。 その重みとは裏腹に、どこまでも軽やかにコンと響く。 「っ…」と小さく息を詰めた音は、どちらのどんな想いの表れだったのだろう。 タッと床を蹴る小さな足音の後に、バタンッと勢いよく開かれた医局の扉。 思わず壁とそれとに挟まれそうになった山岡が、慌てて飛び退るのを目にも止めず、原が駆け出し、そのまま廊下の先に駆けて行った。

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