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第360話
「あーぁ、なんですか、さっきの。不器用ですか」
にっこりと、あまりらしくない悪戯っぽい笑みを浮かべた顔で、山岡がするりと医局のドアをくぐってきた。
原が飛び出していったのと入れ違う形で。扉が閉まり切るその前に見えた顔に、日下部は廊下の外に山岡がいたことを悟った。
「ふっ、言うようになったね。しかも、盗み聞き?」
「う、だって…」
「ん。まぁでも、そろそろ起きてくる頃かな~とは思ってた」
にこりとこちらも同じく悪戯な笑みを浮かべる日下部は、聞かれて構わないつもりで話していたんだろう。
フーッと長い息を吐きながら、ゆったりと自分のデスクに腰掛けるその姿が、晴れ晴れとしたオーラを纏っていた。
「自分でも天邪鬼かな、とは思うけれどね」
すぅっと薄く目を細めて、遠くを見つめる様子を見せる日下部に、山岡は1歩1歩ゆっくりと近づいて行った。
「あれで分からないような育て方 を、してきたつもりはないよ」
「そうですね。彼は、伝わる人だから」
「うん」
ゆるりと1つ、頭を上下させる日下部が、ふいっと山岡のパソコンに顎をしゃくって見せた。
「最後にさ」
「え…?」
「最後に1つだけ、あいつに課題を与えるよ」
ふと、日下部の示すパソコンに視線を移した山岡は、トンッと触ったそのディスプレイに表示したままだった、本日未明まで掛かりきりだった手術のオペ記事の書きかけを見てハッとした。
「レシピエントさんのケアですか?」
「うん。引継ぎが、終わってあいつが去るまでの期間。あいつを担当医に加えてくれない?」
「それは、構いませんけど…」
「うん。俺たち医師が抱える矛盾。山岡が背負った栄誉と苦渋。それは等しく、移植を受けたレシピエントにも言えることだから」
「はぃ…」
コクリと頷く山岡は、それが命を繋いだ当事者だからこそ、より深く重く圧し掛かることを知っていた。
「褒め称えられることが苦しいおまえ。成功を褒められる度に、その裏で失った命の重みを噛み締めるおまえ」
「はぃ」
「それは同じく、周囲から良かった、元気になれてよかったと言われる度に、別の誰かの命の上にある自分の健康に苦悩するレシピエントの気持ちそのものだから」
「はぃ」
「原に、その彼女の未来を、一緒に考えさせる」
「っ…」
それは、彼女に里見の臓器が移植されたと考えている原には、辛くて、だけどどうしても気づいて欲しい1つの答えで。
「やっぱり、日下部先生は、原先生には甘々ですよ」
ふふ、と漆黒の瞳を揺らして笑う山岡に、日下部は「そうか?」なんて嘯きながら首を傾げた。
「そうですよ」
ゆるりと目を細める山岡もまた、その瞳に生を繋いだレシピエントの姿を思い描く。
生きることが。生きることは、きっと楽で楽しいことばかりじゃない。どうしようもなく辛いときも、苦しいこともあるだろう。
だけど。だけど、命の重みと感謝を忘れずに、健康な身体を得た自分の生を精一杯生き抜くことが、ドナーの思いに応えることになる。
「奪った」んじゃない。「贈られた」のだ。
善意と覚悟の願いを詰めて、その先の人生を輝かしく正々堂々と歩いて行ってもらうために。
ドナーが贈った、最期のプレゼント。
そのことにどうか、原が気づけますように。
そのことをどうか、原が原の言葉で、想いで、レシピエントと共に見つけてくれますように。
日下部が与える最後のレッスンが、あまりに甘やかで、そして原への想いがどこまでも温かくて。
「あはは、本当、ベタ甘なオーベンですね」
ふわりと綻んだ山岡の顔を、日下部は横から眩しそうにそっと見つめた。
「ふふ、妬ける?」
「え?いぇ…まったく」
「え~」
「だって原先生は、やっぱりすごくいいオーベンに巡り合ったと思いますから」
「そ?」
「はぃ。突き放しているように見えて、本当はそうすればがむしゃらになって日下部先生の意識を惹き戻そうと奮起する、単純な原先生の性格を見越しているからですし」
「言うね~、先輩」
「その上で最後の課題は…あまりに原先生の未来に、期待と希望を見ていますから」
「ふふ。これだけして、気づかなかったら、本当、どうしてやろう、あいつ」
悪戯に笑う日下部の、その意地悪な言葉が肯定だった。
「なぁ、それにしても、山岡先生?」
「はぃ?なんですか?」
「ん~?コ、コ」
「へっ?」
にっ、と意地悪く頬を持ち上げた日下部が、トントンッと山岡の白衣の襟元から覗く胸元の辺りを指さした。
「っ~~!まさか…」
「見えるところは気をつけたつもりだったんだけどね」
「なっ、ちょっ、もう何してっ…」
ガバッとその場所を手のひらで押さえ、涙目になりながら窮屈そうにワイシャツのボタンを上まで閉める山岡に、日下部がクスクスと笑い声を上げている。
「よかった。今日オペなくて」
「ちょっ…もし緊急入ったらどうするんですかっ…」
スクラブに着替えたら、バッチリ見えてしまうその場所に、山岡は情けなく眉尻を下げている。
「クスクス、代わってやろうか?」
「2件入ったらどうします?」
「さぁてどうする?『医師』の山岡先生は、キスマーク隠したさに、オペを拒否するのかな?」
「っ~~!しませんっ!するわけないでしょうっ?」
本当、意地悪!と叫ぶ山岡の目には、ぎりぎり一杯の涙の膜が溜まっている。
「クスクス、なんて、悪い冗談だよ。ほら」
「っ…どうして絆創膏とかそういう簡易的なものじゃなくて、ガーゼとテープなんですか…」
どこまで大袈裟にするつもりだ、とげっそりする山岡の目の前に、ユラユラと揺らされるはさみが鬱陶しい。
「もう放っておいてください…」
はぁっ、と疲れた溜息を漏らしながら、キィ、と自分の事務椅子に腰を下ろす山岡を、日下部は注意深く観察する。
(ん。どこもぎこちないところはないな。夜通しオペで、その挙句原とやり合って、俺に抱かれ、たった数時間の睡眠で復活、タフなことだ)
クスッと笑った日下部の声は、どうやら山岡には聞こえなかったらしい。
開いたついでとでも思ったか、真剣な目をしてパソコンに向かい、カタカタとキーボードを打ち始めた山岡が、ぶつぶつ言いながらオペ記事を仕上げていく。
くしゃりと顔を歪めて、ぎゅっと眉を寄せて。小さく首を傾げて、コクリと1人頷いて。
その目がふにゃりと、画面を見つめて薄く細められる。
「彼女の中で生きている、か…」
カタカタと打ち込まれていく言葉に重なって、ぽつりと呟かれた山岡の声が、そっと優しく医局の空気に溶けていった。
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