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第361話

          * 同時移植成功の報に、消化器外科病棟が湧いてから数日後。患者は特に術後の重篤な合併症なども起こすことなく、順調な回復路線に乗っていた。 日下部と原のコンビ解消の話は、すでに消化器外科スタッフには伝えられ、最後の担当患者として、原は同時移植を受けた患者と日々向き合っていた。 「それにしてもさぁ、日下部先生と原先生、すっごい揉めたんだって?」 「え~?私が聞いたのは、原先生がなんか山岡先生の逆鱗に触れて、山岡ラブ、な日下部先生が、原先生を切ったっていう話とか…」 「えっ?マジ?そんな私情?いや、ないっしょ!」 わいわい、ざわざわ。今日も消化器外科病棟ナースステーションは、噂話に絶賛盛り上がり中か。 「でも、突然の研修医の転科って。なにか訳があるよね~」 「うん。でも本当、残念。日下部先生と原先生のコンビ、私意外と好きだったんだよね」 「あっ、私も。私も」 「同じく!山岡先生と日下部先生の美形カップルは見ていて眼福なんだけどさ。日下部先生と原先生のコンビも見ていて飽きないっていうか、あの小気味いいやり取り、意外と元気もらってたのになぁ」 「分かるぅ!」 キャッキャと声のトーンが上がっていく話に、珍しく廊下の陰に居合わせたのは日下部で、その頬は小さな苦笑の色を浮かべていた。 「あ~ぁ、原先生がいなくなるとか、正直寂しいわ」 「そうだね。何科に行くのかな」 「まだ未定らしいけど、救急か小児が有力じゃないかって」 「救急か…。きついな」 「えっ?なに?まさか追いかけて移動願い出す気?」 ひゃぁ!と上がる叫び声に、日下部はさて、どのタイミングで出て行こうかと思案する。 「う~ん、私は消化器外科も気に入っているし、ここには日下部先生もいるから、離れがたいっていえば離れがたいけどさ」 「けど?あっ、まさか、日下部先生はもう山岡先生のものだから、フリーの原先生狙いでいくってこと?」 やばいー!と叫ぶ看護師たちに、そろそろか、と足を1歩踏み出した日下部の白衣の裾が、ふわりと揺れて、次の瞬間、ピタリと固まった。 「それもあるけど、その前に」 「え…?」 ひそっと突然潜められた小声は、看護師たちの会話に注目していた日下部の耳に、きちんと拾われていた。 「それ、マジ?どこ情報?」 「嘘でしょ?山岡先生まで?」 ガーン、とショックを受けた様子の看護師たちに、同じくサッと顔色を悪くした日下部が、慌てて廊下の陰から飛び出した。 「キャァァッ、日下部先生!おはようございますぅ」 「今日も朝からイケメン、最高。おはようございます」 途端に湧いたその場の空気を華麗に無視して、日下部はひっそりと声を潜めて問題発言をした看護師に、一直線に向かっていった。 「ねぇ、今の話、本当?」 ジッ、と日下部に目を覗き込まれて、その看護師がぶわっと頬を真っ赤にする。 今はそうじゃない、と怒鳴り散らしたいのを必死で我慢して、日下部は、ゆっくりと深呼吸をしながら、1歩引いた。 「突然ごめん。だけど、今言っていた話。山岡先生が、海外の医療機関からスカウトされてる…って」 「っ、あ、あぁぁ、えぇ、はい」 ビシリと言われた日下部の言葉に、おどおどとしながらも、看護師がコクリと頷く。 ハァーッと長い息を吐いた日下部が、目を伏せて頭をフルフルと振ってから、再びジッとその看護師に視線を向けた。 「本当の話?誰から聞いた?」 ジッと問い詰めるように目を合わせてくる日下部に、看護師は困ったように笑いながら、こてりと小さく首を傾げた。 「確かな情報っていうわけじゃないんですけど…」 「それでもいい」 「先日の移植オペ…どこかの移植外科から見学者が来ていたんですよね?」 「うん」 「その人が、なんか、山岡先生のオペを絶賛していたらしくて」 「……なるほど、それで?」 「その、日下部先生のお父さんのことで張り付いていたマスコミ…」 「うん?」 「その中の誰かが、警備をすり抜けて、今回の移植のことを嗅ぎつけちゃったみたいで。それを記事にする、しないで揉めているところに、ちょうど居合わせてしまってですね」 「うん…」 「その時に、ちょっと聞こえちゃったんですよ。『見学者も絶賛だったって。そのお陰で海外の医療機関からも引き抜きの声が上がっているらしいんだぞ』とかなんとか。『日本の名医、同時移植の成功。しかも顔が恐ろしくいいらしいじゃないか。そんなもの、記事にしなくてどうする』って…」 要は盗み聞きなんですけど~と苦笑する看護師に、日下部はぼんやりと頷きながら、「そう。ありがとう…」と呟いて、ふらりと足を引いた。 「だから、原先生もいなくなっちゃうし、これで山岡先生も、とか思ったら、この機会に別の科に行ってみるのもいいかな~なんて」 「それで、選ぶんなら原先生が行く科についていっちゃおうって?」 「だってぇ、山岡日下部カップルを見ることもなくなり、日下部原コンビも解消じゃ、張り合いがさぁ…」 「あんた、何しに病院来てるんだ、って。まぁでも、刺激が減るのは納得か~」 確かにつまらなくはなるかもね、なんて、仕事そっちのけで医師たちの噂話に花が咲く看護師たちを尻目に、日下部はへにゃりと力なく微笑んで、フルフルと頭を振った。 「うん、とりあえず情報ありがとう。きみたち、おしゃべりもほどほどに、手を動かしてね」 仕事、仕事、と注意を促す日下部が、いつもより数段落ちた頼りない声を置いてその場を去っていくのを、看護師たちが顔を見合わせて見送る。 「あれ?もしかして、私いらないこと言った?」 「あ~、考えてなかったけどさ。つまり山岡先生が海外行くってことは、日下部先生と離れ離れになるって話?」 「っ!そうじゃん。そこじゃん!」 ふらりと去っていった日下部の後ろ姿は、すでに随分と廊下の先にある。 その背があまりに落胆を背負っていて、看護師たちは「あちゃー」と思いながらも、すでになす術もなく皆一様に黙り込み、気まずい沈黙がシーンと流れた。

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