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第362話
その日下部が、とりあえず山岡に事実の確認を、と、廊下をふらりと歩いているときだった。
ふと、視界の前方、部長室の扉が開き、ペコリとお辞儀をしながら、腰を折った白衣の誰かの姿が出てきたのが見えた。
「っ…」
パタリとゆっくり閉められていく扉の陰から、その人物の姿が明らかになる。
扉が閉まり切るまで下げていた頭を持ち上げていった横顔は、今まさに日下部が探し求めていた山岡のものだった。
「山岡…っ」
小さな衣擦れと呼び声を聞き、山岡の首がゆるりと廊下の先に巡らされる。
その目が一瞬だけ小さく瞠られ、そうしてふにゃりと緩んでいった。
「日下部先生。おはようございます」
「っ…お、はよう。うん、おはよう」
柔らかな山岡の微笑みに、にこりとつられて笑いながらも、日下部の内心はざわりと騒めく。
「早いですね?」なんて軽やかに微笑みながら、テクテクと近づいてくる山岡の背後で白衣の裾が揺れた。
「まぁね。おまえが当直明けでいない朝はつまらないから」
早く家を出るんだ、と微笑む日下部に、山岡の頬がカァッと赤くなる。
「あ、さっぱらから…何を言ってるんですか」
しかも人の往来がある廊下!と焦る山岡の心配に反して、早朝の部長室前の廊下など、静かなものだ。
「ふふ、相変わらず、初心だな」
クスリと笑いながら、日下部がぷんぷんと膨れている山岡の顔に、そっと手を伸ばした。
「っ?!」
「どう?昨日はよく眠れた?」
スゥッと山岡の膨れた頬を撫でながら、日下部が薄く目を細める。
昨晩当直で病院に泊まった山岡の顔色は、特に悪くもよくもなく普通だ。
「はぃ。急変急患もなく、ゆっくりと」
「そっか。それはなにより」
ふわりと微笑む日下部は、そのままするりと山岡の唇を指先でなぞった。
「っ…」
「朝食は?ちゃんと食べた?」
(っ、違う…聞きたいのは、それじゃない…)
ふにふにと山岡の唇を指の腹で押しながら、日下部は意に反した言葉を紡ぐ己の口を呪っていた。
「えっと、はぃ」
日下部の動揺には気づかずに、山岡の頭がコクリと上下する。
それを見ながら、日下部の目は、ゆっくりと細められていった。
「そう。それで?パン1個、だなんて、まさか言わないよな?」
クスッと笑い声を上げた日下部に、山岡の目がふらりと泳いだ。
「えっ、あ、えーと…?」
「…おまえね」
言葉よりも雄弁に答えを語る態度に苦笑しながら、日下部は山岡の頬っぺたをプニッと摘まんだ。
途端にへにゃりと情けない顔になった山岡の頬を、ブニブニと弄ぶ。
「今日、午前中からオペ入っているんじゃなかったか?」
イレギュラーだが、どうしてもその枠にしか、タイミングと都合が合わなかった手術が1件。
簡単な手術ではあるけれど、当直明けに朝食がパン1個では、あまりに体調面が心許ない。
「だ、大丈夫です」
ふらりとそっぽを向く山岡は、自分のコンデイションくらいは分かっていると言う。
相変わらず食に無頓着を極める山岡を、日下部は緩く目を細めてそっと見つめた。
「相変わらず、か」
「え…?」
「おまえは意外と頑固だよな」
クスクスと笑う日下部が、ようやく山岡から手を離して、ふわりと白衣の裾を揺らした。
「部長室」
「へっ?」
「さっき、部長室から出てきたよな?なんか、あった?」
意を決したように表情を引き締めた日下部に、山岡の目がゆっくりと丸くなった。
「ん?」
「っ、えっと、あの、それは…」
途端に困ったようにへにゃりと崩れる山岡の表情に、日下部の眉が寄る。
「あの、その…」
そのままふにゃりと俯いてしまった山岡を、ジッと見つめながら、日下部はぼんやりと口を開いていた。
「海外スカウト…」
「っえ?」
ぽつりと落とされた日下部の言葉に、山岡の頭ががばりと持ち上がった。
「ふっ、海外の医療機関から、こちらへ来ないかって話が来た?」
「っ、どうして、知って…」
オレも今聞いたばかりなのに、と呟く山岡に、日下部の目がスゥッと細くなった。
「今朝…いや、さっきかな。ナースステーションでね、山岡先生が海外の医療機関にスカウトされてる、って話で盛り上がっていたから」
「そ、んな…」
「まぁその反応は、どうやら看護師たちの噂話は本当だったみたいだね」
耳が早いよね、と笑う日下部に、山岡の目はゆらりゆらりと困惑に揺れた。
「あぅ…はぃ、その、確かに今朝、当直明けで起きてきて、プラプラと病棟の廊下を歩いていたら、光村先生に会って、呼ばれて…」
「うん」
「あのオレ、この前のオペを成功させたやつ…なんか、どこかの移植外科のドクターが、オレの腕はすごいから、って、海外の医療機関から視察に来ていた人に話したらしくて…」
「うん」
「それで、その…海外の医療機関に、こちらへ来ないか、って話が、きた、らしいんですけど…」
「そう」
ぽつり、ぽつりと話す山岡の話に、日下部は静かに相槌を打ちながらふわりと微笑んだ。
「さすが、すごいね」
「え…?」
にこりと微笑んで、称賛の言葉を漏らす日下部に、山岡の目がくるりと丸くなった。
「さすがは山岡先生だ。クスクス、俺が見つけた、最高の名医、天才外科医山岡泰佳」
「っ、く、さかべ、せんせい…?」
「うん。きっとそんなことも、あるかもしれない、と思ってた」
「え…?あの、日下部せんせ…」
「海外かぁ」
「え、あの…」
ふわりとどこまでも美しく微笑む日下部に、山岡はオドオドと戸惑って、視線をふらふら彷徨わせた。
「おまえの実力が、正当に評価され、勝ち得たチャンスだ」
「っ…」
「最高の腕を持ち、確かな心構えを持つ、医師の、山岡泰佳」
「……」
「きっとこちらにはない症例とか、アプローチ方法、向こうでは向こうの技術ややり方…きっと吸収するものはたくさんあるだろうね」
「そ、れは…はぃ」
「その上で、おまえの持つ技術や知識を、向こうの医療現場でも生かして…きっと今よりもっと、多くの命を救える医者になる」
「っ…日下部先生」
「より多くの命を、1つでも多くの命を、その手に掬い上げる。おまえの、医師としての信念の、今以上の向上と実現の…」
さらなる1歩だ、と微笑む日下部に、山岡の顔がくしゃりと歪んだ。
「おめでとう」
「日下部先生…」
「応援してる」
にっこりと鮮やかに微笑む日下部に、山岡の顔はずるりと俯いて、こくりと小さく頭が揺れた。
「頑張れよ」
ぽん、と頭に乗った日下部の手に、俯いたままの山岡は、ぎゅっと唇を噛み締める。
その、さらりと不自然に揺れた山岡の髪と、小さく震える山岡の肩に、日下部は気づかなかった。
「さぁてと、それじゃぁこれから、ますます忙しくなるなぁ」
2人も一気にいなくなるんじゃ、新しい医師が来るのか?と首を傾げる日下部の手が、するりと山岡の頭から離れていく。
きゅっとサンダル履きの足音を立てて、日下部は医局に向かおうと踵を返した。
(っ……)
ひらりと翻った白衣の裾を見つけながら、山岡の顔がのそりと持ち上がる。
遠ざかる日下部の後ろ姿を見つめる漆黒の山岡の目が、ゆらりと小さく波紋を広げた。
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