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第363話
「っ、あ、の、日下部先生。投薬指示書…チェックをお願いします」
そっと遠慮がちに差し出される紙を、日下部は何の気なしに受け取った。
「うん。いいんじゃないかな。間違ってないよ」
ふわりと戻される紙を、原はホッとしたように受け取った。
日下部が指導医を降りると宣言して以来、2人の間の空気はどこかぎこちない。
それでもなるべくいつも通りを心がける日下部に、原は多少なりとも救われてはいた。
「クスクス、次の科に行っても、基本的なことくらいは、完璧にやりこなしてもらうようにしておかないとね。オーベンだった俺が恥ずかしい」
「っ、それはっ、大丈夫です!」
「ん?」
「日下部先生の名を汚すような真似は、決して…」
「ふふ、そう?うん。まぁでも、そんなに気負う必要はないからね」
ぷらりと手を振って、「じゃぁ俺は別の仕事があるから」と医局を出て行く日下部を、原は黙ってお辞儀をしながら見送る。
白衣の裾がふわりと揺れて、医局のドアの向こうに消えていったその後、今度は入れ違うようにして、山岡が室内に入ってきた。
「あ、お疲れ様です、山岡先生」
「ん?あ、原先生もお疲れ様」
にこりと微笑む山岡は、あの日以来も、こうして原に対する態度を変えない。
原も原で、再度きっちりと謝罪した後は、後腐れなくさっぱりと許してくれた山岡に甘えていた。
「ん~、原先生もコーヒー飲みますか?」
テクテクと、医局の中を横切った山岡が、「休憩、休憩」と呟きながら、コーヒーサーバーの前で手を動かし始める。
その後ろ姿を見ながら、ハッと慌てた原は、フルフルと首を振りながら、手元の書類をかさりと揺らした。
「いえおれはっ…」
「あ、まだお仕事残ってます?」
「えっと、その、はい…」
「うん?何か難しいもの?見ようか?」
コポコポとコーヒーを淹れ、湯気の立つコップを手にしながらふらりと原のデスクの側まで戻ってきた山岡が、ちらりと原の手元の書類を覗き込んだ。
「あ、なんだ。投薬指示か」
「はい…」
「日下部先生、見てくれました?」
「はい」
ならよかった、と微笑む山岡に、原はぎこちなく苦笑した。
「よそへ行っても基本のミスなんかはするなよ、って意地悪言われちゃいましたけど」
「っ、それは…」
「はい。分かっていますよ、あの人の憎まれ口くらい」
どれだけ一緒にいたと思うんですか、と笑う原に、一瞬張り詰めた山岡の空気が、ふわりと綻んだ。
「そうですね」
「厳しいことを言うのも、辛く当たるのも、あの人のはぜ~んぶ愛情の裏返しですもんねぇ」
「ふふ」
「分かってます。飴なんか滅多にくれない、愛の鞭ばっかりふるってくる、どSなの」
「あは」
相変わらずなすごい言いようの原に笑ってしまいながら、だけどその目だけが辛そうにゆらりと影を浮かべていたのを、山岡は見落とさなかった。
「だけど、おれが日下部先生の期待を裏切ってしまったのも本当で。信頼を失くしてしまったのも事実なんです」
「原先生…」
「だから、よそを回って、たっくさん修行して、おれがまた、自信を持って、『おれは医者です!』と胸を張って言えるようになったら…おれはまた、日下部先生のところに…ううん、今度はその隣に…」
「っ…」
「信頼を取り戻しに、必ずやって来たいと思います」
「気づいて…っ」
はらりと微笑んだ山岡に、「当然です」なんて胸を張って清々と笑う原が、日下部の選んだ研修医でよかったと山岡は思った。
この子が日下部の期待にそう人間でよかったと、そう、心から思っていた。
「やっぱり本当に、原先生は伝わる人でした」
「まだまだ未熟者ですけどね」
その節は、とまた謝罪を口にしようとする原に首を振って、山岡はただ穏やかに微笑んでいた。
「それより、山岡先生」
「はぃ?」
「おれがここを出て行く話もそうですけど、山岡先生の方も」
聞こえてきていますよ、と笑う原に、山岡の表情が途端に曇り出した。
「なんでみんな、もうそんなに知っているんですか?」
「え~?おれと日下部先生のコンビ解消話もなかなかですけど、そっちもすっごい噂ですもん」
「噂……」
「海外の医療機関からお声掛かりなんて、栄誉なことじゃないですか。みんな山岡先生はやっぱりすごかった、って絶賛してますよ」
おれもそう思います、と無邪気に語る原に、山岡が漏らすのは苦笑ばかりだった。
「栄誉、か…」
「あれ?なんか、あまり乗り気じゃありません?」
「ん~?そう、でも、ないんですけど…」
「ですよね!だって海外ですよ?やっぱり技術とか、医療機器とか、最先端をいってるんですよね?」
「どうかな…」
「そもそも留学なんて格好いいし!腕を見込んで声を掛けられるなんて、外科医として最高な誉れですよね!」
すごいなぁ、尊敬するなぁ、と感心しきりで呟く原に、山岡はこてりと首を傾げて、「ん…」と微笑んだ。
「海外の先端医療をモノにして、さらにより多くの命を救うお医者さんになるんですね」
「……」
「ますます遠い人になっちゃうなぁ。それでも、おれの憧れの医師はいつまでも山岡先生です」
「ん…」
薄っすらと目を細める山岡に、原がふと、何かを思い出したようにハッとした。
「あっ、でもそれじゃぁ、看護師さんたち、なんだかおれの送別会とやらを計画してくれているらしいんですけど…」
「ん?」
「それ、山岡先生の壮行会に食われちゃったり…」
あ~、しそう!と嘆く原に、山岡はようやく声を出して笑ってしまった。
「あはは。そんなことないですよ、きっと」
「そんなことありますよ~、きっと」
でもま、飲めればなんでもいいんですけど、と笑う原に、山岡は曖昧に微笑んだ。
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