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第366話
その夜。
少しだけ、どうしても残業があるという日下部を残して、先に1人、自宅に帰った山岡は、1日の疲れを癒そうと、先に1人でお風呂に入っていた。
「ふぁ~っ」
ちゃぷん、と浴槽に溜めた湯を揺らし、両足を清々と伸ばしてのんびりと寛ぐ。
その目がぼんやりと湯気に烟った天井を見上げ、ゆっくりと閉じていった。
「はぁっ…」
ふわん、と小さく吐息が浴室の壁に反響する。
ゆらゆらと揺れるお湯に全身が包まれて、思考も倣うようにあちらへこちらへとゆらゆら揺れた。
「海外スカウト、か…」
ぽつり、と呟かれた言葉は、山岡の他に聞く者もなく、ただ浴室の壁に跳ね返って消えていった。
「ありがたいことだって分かってる」
自分の信念を思えば…その心構えを考えれば、海外スカウトを断る理由なんてないのは分かっている。
「でも…」
日下部が、「頑張れよ」と、贈ってくれたエールが、不意に耳に蘇る。
「日下部先生…」
(どうしてあんな風にあっさり応援の言葉を贈ってくれて、どうしてあんな風に笑っていたんですか?)
とても綺麗な、あまりに綺麗すぎる日下部の笑顔を思い出す。
「オレは…」
ふらり、と彷徨った視線は、深い湯気に満たされた、浴室の天井を映していた。
ぶくぶくぶく、と口元まで湯につかるほどずり下がった身体で、潤む視界をバシャッと湯を掬い上げて顔にぶっかけて誤魔化す。
「っ、っ…」
(この手に、さらなる技術がつく。行かない手はない。オレなら、行くに決まっている)
それは分かっているのだ。
「っ、オレは、何より最優先で医者で…っ。日下部先生だって、そう思ってて…」
その信頼を、尊敬を、誰より山岡はよく分かっている。
「分かってる…っ」
(だって目の前に、2つの瀕死の命があったとき、諦めるべきが日下部先生の命だったとしたとき、きっぱり切り捨てて次へ行ける、とまで言った、オレだから)
そんな山岡が、この海外スカウトを蹴るわけがない。
「それが当たり前だ。それが、オレだ…。そんなこと分かってる。分かってるのに…」
ぐらりと揺れるこの視界はなんだろう。
ぼんやりとしか見えない、あの白い天井は、浴室内を満たす湯気のせい?
ドクドクと、うるさいほどに音を立てる心臓に、まずい、のぼせてきたきたか?と思った山岡は、ザッパンと湯を掻き分けて立ち上がった。
「でも、日下部先生…」
その笑顔が。そのエールを紡ぎ出した口が。ふわりと脳裏に浮かんでは消えていく。
「オレは…」
ぐっ、と拳を握り締めて、山岡はポタポタと髪から滴る湯を振り払い、浴槽の縁をまたいだ。
ガチャリと浴室のドアを開けたとき、ちょうど玄関を上がってくる誰かの足音が聞こえ、日下部が帰宅したことを知った。
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