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第368話
そうして、大分早起きしてしまったし、ということで、これでもかと言うほどバランスのよい、朝から豪華な食事を日下部が整えて。
驚き呆れ、感心しながらも、山岡がそれを残すことなく胃に収め、2人は連れ立って病院に出勤してきていた。
「じゃぁ俺は、ちょっと検査室に寄る用事があって、そのまま外来行くから」
「はぃ。オレは今日フリーなので、病棟に行きます」
「うん」
「また昼に」と、エレベーターホールでそれぞれに分かれ、山岡は、病棟に上がって、更衣室で白衣に着替えて医局に向かっていた。
「おはようございます」
「あ、山岡先生、おはようございます」
ガチャリ、とドアを開けて入った医局内には、原がデスクについて、すでに書類仕事を始めていた。
「原先生、早いですね」
にこりと微笑みながら自分の席に向かった山岡は、ふと、奥のソファで毛布を被り、足先だけがダランと肘掛けに垂れて見えている何者かの姿を見つけた。
「あれ…?えっと、井上先生かな?」
サイズ感と、ソファの下に置かれた突っ掛けを見ながら、中堅医師の名前が口をつく。原がソファにチラリと視線を流しながら、「あぁ」と頷いた。
「そうです。昨晩当直で、全然寝られなかったらしくて」
「へぇ?なんかあったのかな?」
「おれが聞いたのは、アッペが立て続けに2件、ほぼ同時にマロリーワイスで吐血しまくりの患者が運び込まれたって」
「うわ…」
「アッペ1件は救急がやれたみたいですけど、残り2つは井上先生がヘルプで」
「だろうね…」
「その後も、急性腹症だなんだと、意見求めに何度か呼ばれたみたいで」
「そっか」
「全然寝れてないから、俺は昼まで寝る!って言って、そこに転がっちゃいました」
幸いオフです、と笑う原に、山岡は井上への同情を浮かべながら、ストンと自分の席に座った。
「じゃぁ起こさないように静かにしていてあげなきゃですね」
「そうですね」
「せっかくのオフを、午前中潰して医局で昼寝なんて可哀想ですけど…」
「運が悪かったですね」
そういう日もあります、と笑う原も、随分と外科医事情に慣れてきたか。
「ですね…。ん?あ、これ、回覧だ」
そっとなるべく音を立てないように、自分のデスクの上の書類を整理し始めた山岡が、ふと1枚のバインダーを目に止めた。
「シンポジウムのお知らせか~。ふぅん、講演、結構有名な先生だ…」
「……?」
「軟性内視鏡手術…面白そうだけど。この日程じゃぁなぁ…」
ブツブツ言いながら、閲覧済の枠に自分のサインをしていく山岡が、不意にひょいっと原にそのバインダーを差し出した。
「えっ…?」
「はぃ、次、原先生。研修医でも参加できるはずだよ。もし、興味があれば」
どうぞ、とバインダーを渡してこようとする山岡に、原の眉がきゅっと寄った。
「いや、回覧順、これ、先に日下部先生ですよね?」
なんでおれ、と苦笑する原に、山岡の目がキョトンとなった。
「日下部…?」
え?と首を傾げる山岡に、は?と首を傾げてしまうのは原もだった。
「いやだから、先に日下部先生に回さないと…」
「日下部?…あ、あぁ、日下部先生。そうだ、そうでした」
ごめん、と笑う山岡が、ハッとしたようにバインダーを引っ込め、日下部先生の机は…なんて、空席のそちらに回覧を置いている。
「山岡先生…?」
その様子に不審げに顔をしかめた原が、ジッと山岡を窺ったところに。
「んぁぁ~っ、身体が、軋む~」
突然、ビンッと両手と両足を突っ張った井上が、毛布を跳ね飛ばしながら叫んだせいで、2人はギョッとしてそちらに気を取られてしまった。
「びっくりしたぁ…」
「あは、井上先生、そんな狭いソファで寝られているから…」
ばさりと床に落ちてしまった毛布を拾いに行きながら、山岡が苦笑してその顔を覗き込む。
「んぁ?あ、あぁ、山岡先生、すみません。今何時です?」
「えぇっと、まだ9時を回ったばかりですね」
「9時か~」
まだ寝足りない、と呟く井上に、どうぞと毛布を渡しながら、山岡が小さく微笑んだ。
「仮眠室、使われたらどうですか?」
空いていますよ、と言う山岡に、井上がばさりと毛布を被り直しながら首を振る。
「いえ…なんか、ベッドですっかり寝入ってしまうのは悔しい気がして」
「あはは。まぁ、せっかくのオフですもんねぇ…」
「でしょう?分かります?この、帰宅する気力と体力さえ戻ればいい、って気持ち」
「はぃ」
「だから後1時間だけ!10時まで俺は寝る!」
おやすみなさい!と毛布を被った井上が、ものの数秒でまた「ぐぅ」と寝息を立て始める。
「本当に、お疲れですね…。これは最初の宣言通り、きっと昼までコースだな」
「ふ、ははっ。そうですね、きっと」
山岡の言葉に笑い声を上げた原が、うんうん、なんて頷いている。
「じゃぁオレはちょっと病棟を回って、そのままナースステーションにいますね」
「あ、はい、わかりました。お疲れ様です」
ぷらりと手を振って医局を出て行く山岡を見送って、原も大きく伸びをする。
「ん~っ」と響くその声に、井上がぴくりと身動ぎ、原が慌てて自分の口元を両手で押さえていた。
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