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第369話

結局、山岡の発言通り、昼まで死んだように眠っていた井上が、医局のソファの上でようやく目を覚ました頃。 原も、山岡も、日下部も、それぞれ昼食を取るために、職員用の食堂の一角にいた。 「ふぅ~っ、今日の外来、意外と混んでた」 疲れた、と愚痴りながら、定食のトレーをテーブルに置いた日下部が、向かいに腰掛けた山岡を見遣った。 「その割に早かったですね」 まだ12時半前、と微笑む山岡に、日下部が得意げに鼻を鳴らす。 「まぁね。おまえじゃないから、トントンと捌いていってるよ」 「う…。でもオレだって最近は、12時半回ることは滅多にありませんからね」 むっ、と口を尖らせる山岡は確かに、以前に比べて格段に診察スピードが上がっている。 「見え辛い伊達メガネと、邪魔な前髪がなくなったお陰、かな?」 「う~、それも否定はできませんけど…」 「クスクス、じゃぁ患者に聞き返されることとか、看護師に通訳されることとか、説明し直しのロスが減ったと」 「なんですか。全部日下部先生の教育の賜物って言いたいんですか」 「いや?俺はおまえの本来の力を引き出しただけに過ぎないよ」 クスッと楽し気に微笑む日下部に、山岡の顔がカァッと赤くなり、ずぶずぶとその顔が俯いて行ってしまった。 「ず、るい…です」 「ふふ、でも、山岡泰佳は、まだこんなものじゃない」 さらに高みに行ける、と笑う日下部に、山岡の顔ががばりと上がった。 「っ!それは……って、なにしてるんですか、これ…」 日下部の発言に反論しようと上げた目は、悪戯な顔をしているだろう日下部の表情を捉えた…はずなのに。先に目に飛び込んできたのは、その手前にある山岡のランチトレーだった。 「いやぁ、相変わらず、カロリーが足りてないみたいだから、追加をね」 「だからって人の皿にこんなに…」 何やっているんですか、と眉尻を下げる山岡の、小鉢が2品ほど乗ったトレーの上の皿には、さらに唐揚げとエビフライがどーんと勝手に、日下部のトレイの上から移動してきていた。 「前に、見ているだけで胸焼けしそうとか言っていたくせに、おかしいとは思ったんですよ、日下部先生の今日の量」 「ふふ、確信犯」 「初めからオレに食べさせる気でしたね?」 「当たり前だろ。だれが1人で食べられるんだよ。ミックスフライ定食なんて、こんなボリューム感満点のもの」 「……」 シラーッと彷徨っていく山岡の目が、そのまま少し離れた位置に席を取っている、スクラブ姿の研修医の手元に向かって、ピタリと止まる。 「あ。いたな、そういえば」 同じく山岡の視線を追って、自分がオーベンを務めていた、元、自分の研修医を見つけて、日下部がクスクスと笑い声を上げた。 「本当、あいつ、相変わらず大食い」 おまえと足して2で割ってちょうどいい、と笑う日下部に、山岡が苦笑する。 「若さですね~」 「確かに若いな。っていうおまえも、見た目、若いからな?」 「日下部先生だって」 美魔男なんでしょ?と笑う山岡に、日下部がコツンとその頭をぶつ仕草をした。 「まぁあいつは成長期だから例外ってことで」 「成長期?今ですか?」 遅すぎます、と笑う山岡に、日下部が「あいつだから」と嘯いている。 「まぁでも、医師としては、外れていませんけれどね」 「まぁな。そういえばあいつ、なんか、レシピエントだった彼女と一緒に、ドナーのご家族へサンクスレターを書いているんだって?」 「あ、聞いてます?」 「うん。一応、転科までは、俺が形式上オーベンだからね」 「そうですね」 前ほどべったりではないものの、報告や相談などは受けている日下部を見遣って、山岡は肯定の意で頷いた。 「2人で、上手く、向き合っていっています」 「そっか」 「はぃ。2人とも、大分落ち着いてきましたしね」 「ん。なら良かった。心はさ、切って開けて縫ってくる、っていうわけにはいかないからな~」 「そうですね」 「外科医に出来ることには、限界がある」 スッとその器用な指先で、箸を綺麗に操って、日下部が定食のエビフライをぱくんと口に運んだ。 「医者も人だから」 「はぃ」 「だけど、医者は人だから。だから…」 ふと、言葉の先を途切らせた日下部が、スッと左手のひらを突き出した。 「んぇ…?」 ぱくりと日下部にもらった唐揚げを口に頬張りながら、山岡がコテンと首を傾げつつ、その手に自分の手のひらを突き出し合わせる。 「ふふ、山岡、手当て、の語源って知ってる?」 「えぇまぁ、はぃ」 「「病気や怪我をしたときに、患部に手を当てて治療をしたから」」 ぽつりと続けた山岡の言葉に、日下部の声がそっくり重なる。 「っ…」 「クスクス、諸説あるみたいだけれど、俺もその説が1番好き」 「日下部先生…」 「優しく触れてもらったら…こうして手を触れ合わせたら…なんだか温かいものが流れ込んできて、目に見える傷だけじゃない、色々な痛みや疵口が、治って行きそうな気がするよね」 「はぃ…」 ふわりと笑う日下部に、山岡の表情もへにゃりと緩む。 その山岡の指先が、きゅっと折られて丸まって、日下部の指と指の間に、しっくりと収まった。 「ふふ、こんなところで恋人つなぎ?」 食堂の真っ只中だよ?と笑う日下部に、山岡の頬が上気しながら俯いていく。 それでもきゅっと繋がったまま離されない手に、日下部の頬は自然と緩んだ。 「愛しい、山岡。愛しているよ」 ふわりと極上の微笑みを浮かべ、優しく囁く日下部に、周囲のうっかりその光景に気づいてしまっていたギャラリーが、「キャァァァッ!」と割れんばかりに盛り上がる。 「オレもです…」 『離れたくない……。離したくない…』 俯いたまま、ぽつりと呟かれた山岡の声は、周囲の大歓声と日下部のそれを宥める声に掻き消されて、誰の耳にも届かなかった。

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