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第370話
「っ…」
ドアを開けた瞬間、山岡の顔がヒクリと引き攣ってその場に固まった。
「あ、山岡先生、回診ですか?」
「え、あ、あぁ、はぃ…」
「申し訳ありません。ただいま少々取り込んでおりまして…」
ペコリと頭を下げてくるのは、何やら大量の分厚いファイルを抱えた日下部千里のところの秘書で。
とりあえず、ドアを閉めつつ室内に足を踏み入れた山岡は、目の前に広がる惨状に、苦い表情を浮かべた。
「あ、の、日下部さん…」
「ん?あ、あ、やまおか、せんせい」
少し待ってくれ、という意か、手のひらをスッと山岡に向けて、日下部千里が掠れたゆっくり声を紡ぎ出す。
けれどもその目はチラリと山岡を見ただけで、すぐに目の前の書類だかなんだかに落ちて行ってしまい、その手元は休むことなくポンポンと判を押していた。
「はぁっ。確かに、多少の仕事はしてもいいと許可しましたけど、これは…」
「多少です」
「多少、ですか?」
どこからどう見ても、病気療養中の病人にやらせる仕事量ではない。
シレッと口を挟んでくる秘書に、山岡の眉がぐぐぐ、と間に寄った。
「あの、術後、順調に回復中だとは言え、まだようやくペースト食を始めてみましょうか、っていう、回復初歩の初歩段階なんですけど…」
「そのようですね。すっかりお痩せになられて…」
「いぇ、ですから、この仕事量はですね…」
よよよ、と泣き崩れる仕草をしながらも、容赦なくまたドサドサと、千里の元に分厚いファイルを運ぶ秘書は、言動があまりに矛盾している。
「ですから、秘書さん?」
あのぉ、と山岡がどうにか踏ん張って注意を続けようとしたところに、コンコンと小さなノックの音が響き、白衣姿の医師がまた1人、室内に入ってきた。
「失礼するよ…って、あぁ、山岡先生、来てたんだ」
「え?…あ、えっと、はぃ。その…」
「って、うわ~、なにこれ。想像してたより、さらに酷いな」
なんだこの書類の山は、と、遠慮なくズカズカと室内に踏み込んできた日下部が、呆れたように千里と秘書を流し見た。
「確かに、うちの担当医が仕事を持ち込む許可はしたけどね、限度ってものがあるだろ、限度ってものが」
馬鹿なの?と苦い顔をする日下部が、適当な書類をひょいと取り上げ、それをピラピラと嫌味ったらしく振ってみせた。
「うちの主治医を困らせないでくれない?なに。あなた、仕事してないと死ぬ病気とかなわけ?」
「そうだ、と、いっ、たら?」
「はっ、馬鹿は休み休み言って下さい。あなたは、仕事なんかして回復を遅らせたら死ぬ病気なんだよ。その辺り、自覚ある?」
ふざけるな、と書類をバンッと千里が作業していたベッドの机に叩きつけ、日下部がずいとその顔を千里に寄せた。
「このスッカスカな声。それに、普通の食事だってまだまだ摂れない。山岡先生のオペに限っては、縫合不全なんかは起こさないと断言してあげるけどね、肺炎やその他の合併症はゼロって言ってやれないの」
「…わか、って、いる」
「分かってたら、体力を落として欲しくないこの時期に、過剰に仕事を詰め込むな。あ、な、た、も。必要最低限の書類以外は、会社で処理しろよ…」
まったく、とグチグチ言う日下部は医者だ。
言葉は悪いが、全ては千里の身体を慮ってのもの。
「善処…いたしますが、これらはすべて社長の特効薬ですので…」
「ふん。投薬はすべて俺たちの処方に従ってもらいマス」
「こちら、医薬部外品でして」
「あぁもう!ああ言えばこう言う…」
面倒くさい、と嘆く日下部が、ふと山岡を振り返る。
「山岡先生、ごめんな?この人たちの説教と説得は、俺がみっちりしておくから…」
「え?あの、え?」
「で、診察?は、もう済んだの?」
「あ、いぇ、これからですけど…」
突然振り向いた日下部にワタワタとしながら、山岡はポケットに突っ込んである聴診器を取り出す。
「じゃぁ先に済ませて。その後、俺が、書類仕分けて、緊急そうじゃないのは没収してやるから」
「ちひ、ろ、おまえ、な…」
私の生きがいを取り上げる気か、と睨む千里の視線などなんのその。
「その『生きがい』に早く復帰したいと思うなら、医者の言うことは聞くものだよ」
「ふ、ん、えらそうに。そう、いうが、おまえ、に、書類の、緊急、度など、区別が、つくものか」
「伊達にあなたの遺伝子を引き継いでいないんだよね。見れば大体は分かると思うよ」
「ふ、はっ、私の差し出した、椅子を、蹴っとばして、白衣を選んだ、バカ息子、の、くせに、な」
ははっ、と笑う千里の目に、言葉ほどの棘はまったく含まれていなかった。
「あ、そうなんだ…息子さん」
「山岡先生?」
不意に、ぽつりと溢した山岡に、日下部の視線が向く。
「あ、いぇ…」
「うん?まぁとりあえず、ここ空けるから、診察どうぞ」
スッと脇に避ける日下部にお辞儀をして、山岡が千里のベッドの前に歩み出る。
「あ、えっと、失礼します」
するりと聴診器を耳にはめ、服の下に手を差し入れる山岡は、その流れでチラリと横に立つ日下部の胸元に視線を走らせた。
(日下部、千洋…?本当だ、日下部。…え?でも、消化器外科…?)
胸ポケットで揺れる日下部の名札を読み取って、コテリと山岡の首が傾いていく。
「山岡先生?」
「え?あ、あぁ、すみません、ぼーっとして」
(消化器、外科…?)
きゅっと眉を寄せた山岡は、んんっ?と小声で唸りながら、山岡は綺麗な呼吸音がする千里の胸から、そっと聴診器を離した。
「どう?」
なにか悪い?と心配そうに首を傾げる日下部に、山岡はハッとしてふるふると首を振った。
「あ、いぇ、雑音もなく、特に問題点もありません」
「そ。よかったな」
「どこか痛いところや苦しいところ、辛いことや聞きたいことはありますか?」
顔色、身体の動き、目線を観察しながら、山岡が千里の顔を覗き込む。
「いや。水分、を、飲み込み難いことがある、くらいで、他には、とくに」
「そうですか。噎せたりは?」
「しない、な」
「分かりました。リハビリで改善していくと思いますけれど、酷かったり続くようでしたらまた検査を入れさせてもらいます」
「あぁ、よろしく、たのむ」
緩やかに頭を下げる千里に軽く頷いて、山岡がスッと聴診器をポケットにしまう。
「では、オレはこれで。お大事に」
ペコリと頭を下げて山岡がベッドの側から離れていく。
チラリと一瞬、隣の日下部に流された視線は、申し訳程度の会釈の様子を見せて、「失礼します」と語って軽く伏せられた。
そのままするりと逸れていった視線は、病室の出入り口のドアを捉えている。
「え…?や、ま、おか…?」
ふわりと翻る白衣の裾が、開けられたドアの向こうに消えていく。
その後ろ姿を見送った日下部に、千里の掠れた声が掛かった。
「ふ、はは。おまえたち、仕事、中、は、なんだか、やけに、他人、行儀、なんだ、な」
けじめと言うわけか?と面白そうに首を傾げる千里に、日下部が曖昧に頷いた。
「うん。まぁ、そう、なのかな。あなたの前だから、余計に、だろう、ね。うん」
それにしても、やけに素っ気なく感じた山岡の態度を、日下部は持て余す。
落ち着きなくグー、パーを繰り返す日下部の手が、その違和感の欠片すらも掴めないでいることを語っていた。
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