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第372話

翌朝も、何事もなく共に起き、一緒に朝食を摂って、一緒に出勤してきた山岡と日下部は、山岡が薬局に寄るというので、その階に止まったエレベーターの中で分かれていた。 真っ直ぐ病棟まで上がった日下部は、着替えを済ませて医局に向かう。 中では原がすでに出勤してきており、だらしなく自分の椅子の背もたれに仰け反るように背中を預け、鼻の下にボールペンを挟んで口を尖らせて、ぐるーっと事務椅子を回転させながらぼんやりしていた。 「おはよう」 「っ、あっ、はっ、わ、っとと、くっさかべ先生、おはようございますっ!」 ドタン、バタン、ガシャン。盛大な物音を響かせて、原がワタワタと姿勢を正している。 ぽろりと落ちたボールペンを自分で踏みつけて、ずるりと足を滑らせてガタンと椅子を鳴らしている姿がもうなんというか、頭を抱えたくなってくる。 「ふっ、はは、きみね」 「すっ、みません…って、うわぁぁぁぁっ、待った~っ!」 呆れたように額を押さえながらも笑ってしまった日下部に、盛大に頭を下げた原が、今度はデスクのファイルに腕をつっかけて、バサーッと書類の雪崩を床にぶちまけかけている。 「ぷ、くくく、朝から、コントなの?」 可笑し過ぎ、と目を細めて笑う日下部に、原は書類を押さえた変な体勢で、へらりと困ったように苦笑した。 「すみません、本当、お騒がせして…」 「や、朝から笑った。まったく、そんなに俺に警戒してくれなくていいんだけど」 「っ、そんなつもりでは…」 「うん。まぁ何か考え事をしていたみたいだし?入ってきたのが俺じゃなくてもきみは慌てたかもしれないけど」 ぷらりと手を振って、気にしないよと笑う日下部が、そのまま原から興味を逸らして、自分のデスクに向かう。 「や、その、あの…」 「ん~?」 まだ何か言い訳を続けそうな原に適当に相槌を返して、日下部はデスクのパソコンの画面を開く。 カチカチとマウスをクリックする音が数回響き渡った。 「え~と、脳外の今日の外来担当表は…っと、松島先生か」 ブツブツと呟きながら、するりと衣擦れの音を響かせてPHSを取り出す日下部の様子を、原は黙って窺っている。 「診察、ぶち込めるかな…」 う~ん、と首を傾げてPHSを操作しようとしている日下部に、ついに興味が押さえきれなくなったのか、原がコテリと首を傾げて口を開いた。 「脳外って、日下部先生、頭痛とか?頭がどうかしたんですか?」 思わず、口を挟んでしまった原に、日下部の目がキョトンと向いた。 「え?」 「あ、いや、すみません、つい。気になってしまったもんですから…」 途端にビクリと首を竦めた原に、日下部はついつい苦笑してしまいながら、ふらりと首を振った。 「いや、聞こえるような独り言を言ってた俺も悪いな。脳外、俺じゃなくて、山岡をちょっと」 「えっ?山岡先生、どこか悪いんですか?」 脳外なんて深刻じゃ…と顔を引き締めた原に、日下部は「そうでもないんだけど…」と小さく苦笑しながら首を傾げた。 「ちょっと、なんていうか、昨日引っ掛かる出来事があってな」 「引っ掛かる?」 「物忘れ…というにはかなり大それた…。記憶の不安定さというか、えぇと…」 う~ん、と唸り声を上げる日下部は、山岡の様子を思い出しながら、必死で言葉を選んでいるようだった。 「物忘れ…あ、そういえば」 ぼやぁっと何かを思案する様子を見せた原が、ふと思い出したようにポンと手を打った。 「ん?なにか、知ってることがあるの?」 「あ、いや、え~とその、確かなことは言えないんですけど」 「うん」 「おれも昨日、ちょっと気になったことがあってですね。山岡先生、回覧の順番、日下部先生を飛ばしておれに寄越して…」 「うん?」 それが?と首を傾げる日下部に、原が少しだけ言いづらそうにしながら、けれどはっきりとその時の様子を口にした。 「おれがこれは先に日下部先生ですよ、って伝えたら、一瞬、日下部って誰?みたいな顔をされたような…?」 勘違いだったらすみません、と肩を竦める原に、日下部がぐっと奥歯を噛み締めた。 「そ、っか…」 「はい。あの、だけどでも…」 「いや…。きみは、きみの観察眼に、自信を持っていいかもしれない」 「え…?日下部先生?」 ぐ、と覚悟を決めたように目を据わらせた日下部が、コトン、とデスクにPHSを置いて、深く唸り声を上げた。 「俺が感じた違和感も、そういうことなんだ。あれ?こいつ、俺のこと分かってない…?って」 「え…」 「昨日の帰宅時なんて最たるものだ。山岡は、あの時確かに、俺と同棲していることを忘れていた」 「っ…それ、って…」 「驚いたよ。俺に、職員出入口で、じゃぁここで、お疲れ様なんて頭を下げられた日には」 「ッ…」 「『自宅に帰る』って…どこに帰る気なのかと…」 「く、さかべ、せんせい…」 「すぐに何事もなかったかのように、普通に戻って、ヘラヘラ笑っていたけど…。多分、あの瞬間、確かにあいつは俺との暮らしを忘れていた」 ぐぐっ、と目に力を入れ、唸るように言葉を吐き出す日下部に、原がひゅっと小さく喉を鳴らした。 「っ!日下部先生、それは…」 「うん。とりあえずは、だから脳外に診察をぶち込もうかと…。山岡は今日外来だから、俺が手を空けて代診に入れる時間帯に…と」 「そ、う、ですね…」 「うん。ひとまず診察予約を入れて…っと。あぁ、もうカンファの時間だ」 行かなくちゃ、と呟く日下部が、ふらりと医局の出入り口に向かう。 「あっ、待ってください。おれも一緒に…」 パッと椅子から立ち上がった原も、慌ててその後を追う。 パタパタと連れ立って、日下部と原はナースステーションに向かった。

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