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第373話

「それにしても昨日の山岡先生には驚いたよね~」 「え?どうした?何かあったの?」 ウキウキと、今日もナースステーション内は、絶賛看護師たちの噂話で大盛り上がりの様子だ。 ちょうどナースステーション前の廊下の陰までたどり着いていた日下部と原の足が、知らずのうちにピタリと止まった。 「何かも何も、すっごい大ボケかましてくれたんだよ~?」 「大ボケ?」 「うんっ。この画像さ、誰がオーダー出したのか、って聞くから、日下部先生ですよ、って答えたのよ」 「うんうん、それで?」 「そうしたら、『えっと、日下部先生って、誰ですか?』だって」 「は?」 「この影がどうとか、別角度がどうとかブツブツ言いながら、『その日下部先生って先生は、こちらにいらっしゃいますか?』なんて」 「えぇっ?」 「一瞬みんな凍り付いちゃってさぁ。何言ってんだ、コイツみたいな」 ありえな~いとはしゃぐ看護師たちに、日下部と原の空気がピリッと張り詰めた。 「昨日はエイプリルフールじゃないんだって」 「山岡先生って、そういうドッキリを仕掛けるタイプ~?とか揶揄ったらさ、本当に不思議そうな顔をして首を傾げててさぁ」 「うんうん」 「もう演技はいいから!って。日下部先生は日下部先生で、あなたのカミングアウト済の恋人で消化器外科のエースでしょ、って突っ込んだらね」 「うん」 「『あ、あ~?あれ?オレ、何か変なこと言ってました?』みたいな」 「どんだけボケてんのよ、ってみんなで大笑いしたんだけどさぁ」 ありえなくない?と爆笑する看護師たちを尻目に、日下部が深刻な深い深い吐息をついたのが原の耳に聞こえた。 「っ、日下部先生、これって…」 「うん」 「や、まおか、先生、は…」 「うん」 コクリと頷いたまま、むっつりと押し黙ってしまった日下部が、ゆっくりと廊下の陰から歩み出す。 「っ、待って、日下部先生っ…」 するりと遠ざかっていく白衣の後ろ姿を追いながら、原も慌てて廊下の角から飛び出した。 「っ…」 「あぁっ、日下部先生、おはようございます」 「きゃっ、日下部先生。おはようございますぅ…って、えっと、なんかアンニュイですね、今日は」 それも素敵ですけど~、と騒ぐ看護師が、ナースステーションに足を踏み入れてきた日下部を瞬時に取り囲む。 「うん、おはよう。あのさ、さっきなんか話していた話題のことなんだけど…」 ふらりと力なく手を上げた日下部が、もう少し詳しく話を聞こうと口を開いた、その時。 「おはようございます」 ぺっこりと頭を下げて、山岡がワイシャツ、ネクタイに白衣を羽織った姿で、ひらりとナースステーションに現れた。 「あ、山岡先生、おはようございます」 「おはよ~ございま~す」 テクテクとナースステーション内に入ってくる山岡にも、看護師たちの挨拶の声が掛かる。 それに小さく頭を下げながら奥の席まで向かおうとした山岡の目が、ふと同じく白衣姿の日下部のところで止まった。 「あ、おはようございます」 「うん、おはよう」 「あ、え~と…?」 ふらりとそのまま彷徨った山岡の目が、その後からナースステーションに入ってきていた原を見つけて、ホッと緩んでいった。 「あ、原先生、おはようございます。あの、えっと…」 チラリ、と日下部を窺うように視線を流した山岡の目が、「この方は誰?」と語っている。 そのことに気づいた日下部と原が、同時に愕然とした表情を浮かべた。 「えっ?山岡先生っ?マジですか?だって、これは、日下部先生ですよっ?日下部千洋!」 何をふざけて、と焦る原が、山岡の前にずいと進み出て、必死で日下部を指さす。 愕然としたままの表情を凍らせた日下部が、祈るような面持ちで山岡を見つめた。 その視線の先で、山岡の首がゆっくりと動いていく。 ゆっくりと、こてり、と、真横に。 「えっと、日下部先生…?うちの、新しいお医者さんですか?」 ピシリ。 空気が凍り付く音が聞こえそうなほどはっきりきっぱりと、その場の空気が張り詰めた。 「っ…」 数秒の、誰も吐息の1つすら落とせない、完全な沈黙の後、その空気をそっと揺らしたのは日下部で。 「なぁ、山岡。俺だよ?俺。本当に分からない?」 乞うような、願うような目をしてふらりと1歩足を踏み出した日下部が、戸惑う山岡にそっと手を伸ばした。 「っぁ…」 びくり、と怯えたように身を竦め、山岡が日下部の手から反射的に身体を引いていく。 その咄嗟の行動に傷ついた表情を浮かべた日下部が、宙に浮いた手をぎゅっと握って、ふらりと身体の横に戻した。 「泰佳。…俺が、分からない?」 ふわり、と切なく微笑んだ日下部に、困ったように首を傾げた山岡が、そのままストンと俯いていく。 「あの、えっと、オレ…どこかで、お会い、しました、か?」 オドオドと、目だけを上に向けて、山岡がぼそぼそと呟く。 その顔に、するりとゴムの解けた前髪が、パサリと落ちた。 「っ…!」 ヒュッ、と息を詰めた日下部の顔が、今度こそ完全に色を失くす。 周囲で看護師たちの悲鳴と絶叫、そして非難と詰問の声が激しく響いた。

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