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第374話
「っ、あ、れ…?オレ、眼鏡…」
ふと、絶叫が響き渡るナースステーションの中、ふらりと手を持ち上げた山岡が、指先で鼻根部を押し上げるような仕草をした後、スカッとその手を彷徨わせた。
「え…?あれ?」
どこだ?と戸惑う山岡が、目元を探り、そのまま耳の方まで手を滑らせていく。
「ない…」
レンズやフレーム、眼鏡のつるすら見つけられなかった山岡が、ぐっとますます深く俯いたところに、ふと新たな人の気配がした。
「おはよう。そろそろ朝カンファの時間…だと思ったんだが、なんだね?これは。何事かね?」
テクテクと消化器外科病棟、ナースステーションにやってきた光村が、混迷をきわめたこの場の惨状に顔を顰め、戸惑った声を上げた。
その登場に唯一、あっちへオロオロ、こっちへオロオロと、事態の収拾を図ろうとしていた原が、パァッと目を輝かせて縋りついた。
「あぁ、部長!助かりました。あの、これ、どうにかしてください」
ふにゃふにゃと、情けない顔をして光村に縋りつく原に、光村の眉がますます顰められる。
看護師たちの絶叫や非難の声は止まらないし、山岡は俯いたまま困っているだけで使えないし、日下部は呆然と固まったまま話にならないし。
困り果てた原が出すSOSに、光村も光村で、現状をどう把握していいものか、困った視線をただ原に向けた。
「どうにかと言ってもな、これは一体どういう状況だい?」
「っ、あ、えっと、それは…山岡先生が」
「山岡くんが?」
「日下部先生のことを、忘れてしまった、っていうか、認識しなくなった、っていうか、分からなくなってしまった、みたい、で…」
それでこの惨状だ、とナースステーション内を示した原に、光村の目もまた、ゆっくりと大きく見開かれていった。
「あの山岡くんが、あの日下部くんを…?」
そんなことが起こるはずがない…と愕然となる光村は、山岡と日下部の絆を深くよく知る者の1人だ。
「でもその…」
嘘ではないんです、と訴える原に、光村がゆっくりと山岡の前に立った。
「山岡くん」
「っ、ぁ、はぃ、光村先生。おはようございます」
ぱたり、と俯いた視界に映り込んだスリッパ履きの足元を見て、山岡が目線だけをチラリと持ち上げ、その足の持ち主を認識する。
前髪と前髪の僅かな隙間から、相手を覗き込むようにする山岡の仕草に、光村の丸くなった目は、再びヒクリと戸惑いに揺れた。
「こ、れは…。本当なのかね?」
「え…?えっと、なにが…」
「日下部くんだぞ?きみの、何より、誰よりも大切な者だと私は思っているのだが…。消化器外科の、トップクラスの敏腕医師、日下部千洋くんだぞ?」
「えっと、はぁ…」
オレの大切な?消化器外科医?トップクラス?と、疑問符を次々と浮かべた顔をして首を傾げる山岡に、光村が深い溜息を吐きながら頭を抱えた。
「日下部くん!」
「あ、あぁ、部長…」
「しっかりせんか。とりあえず、脳外の医師に診察を…」
「あ~、えぇ、はい。すでに診察予約をねじ込んであります」
呆然としていた顔をゆっくりと巡らせて、日下部がコクリと頷きながら、力ない笑みを浮かべる。
「そ、うか。ほれ、みんなも、落ち着け」
「っ、あ、光村先生」
「あ、部長」
パンッ、と1つ手を打った光村に、ざわざわと喚いていた看護師たちの身が引き締まる。
「聞いてくれ。とりあえず、山岡先生は今日は外来の担当から外し、代診を山田先生。病棟は原先生が1人になるが、それで対応を頼む」
「はい」
「分かりました」
「日下部先生は、山岡先生を連れてすぐに脳外の医師に診せてきなさい」
「っ、ありがとう、ございます」
「これは由々しき事態だぞ。早急に山岡くんの不調の原因究明と…他のものはそのフォローを頼む」
「はい」と張り詰めた返事の声が重なって、日下部がそっと山岡の肩にポンと触れた。
「行こうか、山岡…」
どうか、もう1度だけ。ここ数日間そうであったように、「あぁそういえば」と。自分のことを思い出してくれないかと、日下部は乞うように願うように山岡を見る。
けれども山岡はむっつりと俯いたまま、「不調って、オレどこも悪くないけどなぁ」と首を傾げているだけだった。
白くなるほどに引き結ばれた日下部の唇から、らしくもない「クソッ」という口汚い罵り声が漏れたのを、この場にいた山岡以外の全員が、痛々しそうに聞いていた。
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