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第375話

そのまま、無理にねじ込まれた脳外の外来診察で、訳も分からず連れて来られた山岡に下された診断名は、日下部がおおよそ予想していた候補のうちの1つで、そして山岡にはさっぱり自覚も理解もできない、1つの病名だった。 「解離性健忘。まぁいわゆる記憶喪失というやつですが…」 医師だから噛み砕いた説明はいらないかな?と視線で窺う脳外科医の松島に、山岡は曖昧に頷き、日下部が隣で微かに吐息を漏らした。 「解離性健忘…。MCIでは、ないんですね?」 そこはよかった、とホッとする日下部に、松島がゆるりと頷いた。 「えぇ。そういう所見はありませんでしたしね。心因性の記憶障害かと思います」 「記憶障害…。オレが…?」 くるりと目を丸くして、未だに信じ難そうに首を傾げる山岡の顔から、さらりと前髪が横に流れて、戸惑う美貌が少しだけ松島の目にも映し出された。 「ご自覚はないようですね。まぁ、全健忘…氏名やご自身のことをすべて忘れてしまうというそれではありませんし…」 「はぃ」 「局限性健忘…つまりはある限定された期間に起きた出来事を思い出せなくなる、にしては、覚えていることと覚えていないことがまちまちです」 「はぁ…」 「選択的健忘、もしくは系統的健忘にあたる症状かとは思いますが…」 ある限定された期間に起きた出来事のいくつかは思い出せるものの、すべてを思い出すことはできない状態、もしくは特定の情報に関する記憶(例えば特定の人物)を失くしてしまう記憶障害だと松島は言う。 「記憶、喪失…」 はぁ、と、未だ納得ができない様子で、握った手を開いたり閉じたりしながら、山岡が気のない声を上げた。 「まぁ、突然あなたは自分の記憶の一部が抜けています、と言われたところで、すんなりと受け入れられる人はいないと思いますが…」 「っ、はぃ…」 「そうですね、では、日下部、千洋先生」 「はぃ?」 「あなたの同僚の医師です。とても親しくしておられたということは、うちの科にも伝わって来ていますが」 覚えがないのでしょう?と、付き添い人用の隣の丸椅子で一緒に話を聞いている日下部を示す松島に、山岡はふらりと顔を持ち上げてから、ストンと俯いた。 「はぃ…」 「っ…」 きゅぅ、と日下部の唇が、悔しそうに引き結ばれる。 その表情をチラリと見ながら、松島がそっと口を開いた。 「日下部先生」 「は、い」 「山岡先生のフルネームは?」 「山岡泰佳」 「好き嫌いや…そうですね、苦手なものとか。あなたと山岡先生が知り合いだと証明できる話など、ありますか?」 2人の様子を注意深く窺うようにしながら、松島がゆっくりと日下部に問いかけた。 その言葉に、日下部は静かに頷く。 「好き嫌いは特になし。強いて言うならパンが好きなんじゃないかと俺は思ってる。苦手なのは痛いことかな。父の名前は山岡汰一。といってもこれは養父で、本当の両親は不明。この病院の勤務医になる前は、大学病院で医師をしていた。親しい友人…はあまり聞かないけれど、川崎さんとは前院時代からつるんでる先輩後輩でよい友人だね」 「っ…」 「他に…そうだな。山岡汰一さんのお墓の場所とか…あぁ、山岡汰一さんと住んでいた家は、今は児童養護施設のヤマオカになっていることとか」 「っ、ぁ、なんで、それを…」 「おま…っと、山岡先生が、連れて行ってくれたんだよ?」 「え…?オレが?」 「うん。それとか、山岡汰一さんと、最後に遠出をした場所が東京タワーだとか。山岡先生は、山岡汰一さんを救いたくて医者を目指したとか」 「っ…」 次々と、山岡がかつて話してくれたエピソードを語る日下部に、山岡の目が丸くなっていった。 「全部、山岡先生が俺に教えてくれた」 「っ…」 ゴクリ、と唾を飲み込んだ山岡が、ぐっと覚悟を決めたように、ちらりと視線を上に上げた。 「オレ、本当にあなたとお知り合いだったんですね…」 「うん」 山岡が、同僚の誰にも話していない話。唯一光村だけが知っている話もあるけれど、あの光村がそれを誰かに話して回ることなどないことは、山岡はよく分かっている。 ならばこれは、本当に日下部が言うように、山岡自身が日下部に話したことなんだろう。 「っ、オ、レ…」 「うん。どうやら分かってもらえたかな。山岡先生は、この、日下部先生の記憶を丸ごと失くしてしまっているんだ」 なるべく刺激にならないように淡々と、事実を確認させる松島に、山岡の目がふらりと揺れて、ストンと床に落ちた。 「はぃ。本当に、そうみたいですね…。あのでもどうしてオレ…」 「うん~。そこなんだよね。山岡先生は、他の同僚の医師の名前や看護師の名前、スタッフの名前はすべて答えられましたし、ここ最近行ったオペも、時系列に間違いなく。受け持っている患者様の名前も全て言えました」 「はぃ…」 「だけど、この人のことだけが分からない」 「はぃ…」 しゅん、と力なく頷く山岡に、松島は励ますように優しく微笑んだ。 「僕はプシ科じゃないからね、詳しいことは言えないんだけど、多分、なにか原因になることや、記憶を失うほどの衝撃やストレスがあったと考えられると思います」 「原因…ストレス…」 「うん。脳に明らかな外傷や所見はないから、心因性。以前にもプシ科の受診歴がありますね」 「あ、はぃ。なんか、解離性昏迷…?オレ、アッペの手術を受けて…その後昏睡状態になったらしくって…」 コテリと首を傾げる山岡に、松島は確認するように日下部に視線を走らせて、返ってきた頷きに、「そう」と頷き返した。 「解離性障害っていうのは、繰り返す人は繰り返すからなぁ…」 「そう、なんですね…」 「うん、まぁそのときの原因が分かっているなら、今回もそのときと同じことが原因の可能性があるんだけど…」 考える素振りをしながら、またも日下部をチラリと見遣る松島に、日下部も緩やかに首を傾げた。 「あの時…と、同じ?いや、今回はそんなきっかけはまったく…」 あのとききっかけとなったのは山岡の過去のトラウマ。けれどもここ最近、それを刺激するような何か、があったとは、日下部が知る限りでは思いつかない。 ましてや山岡の過去のトラウマが原因で、日下部の記憶だけがすっぽりと抜け落ちる意味はまったく分からない。 「そうですか。原因不明…」 「はい」 「まぁ、とりあえずその原因やストレスの元を突き止めないことにはどうにもなりそうにありませんが…ただ、ひょっこり思い出すことがないとも言えませんし」 「そうですね」 「とりあえずは、プシ科に回っていただいて、それからのことはそちらで、ですかね。あちらなら、薬物補助面接や催眠による治療法もありますし。そもそも今回、突然記憶を失くしたというより、覚えていたり忘れていたりを繰り返して、最終的に忘れてしまったんですよね?」 「はい」 「しかも、日下部先生に関する記憶を失くして不都合が生じる部分は書き換えが行われている」 「はい」 「非常にレアケースなんです。プシ科できちんと診てもらった方がいいかと思います」 柔らかく、山岡をいたわる様にそっと見解を述べる松島に、ぐ、と頭を深く俯けて床についた足先を見つめた山岡が、ふぅーっと長い吐息を漏らした。 「は、ぃ。あ、りがとう、ございました…」 「いいえ」 「でも、あの、すみません。少し、頭の中を整理して…それから、治療のことは考えたいと思います」 「そうですね。まだ、あなたは記憶の一部を失っています、なんていきなり言われても、衝撃的すぎて混乱してますよね」 「いぇ、その、はぃ…」 「ご自身のペースで大丈夫ですよ。一応、院内紹介で紹介状を出しておきますね」 「は、ぃ。ありがとうございます」 にっこりと優しく微笑む松島に、山岡はぺっこりとさらに頭を深く下げ、するりと椅子から立ち上がった。 「あ、あのっ…」 「はい?」 「も、もし、また、ご相談したいことがありましたら…あの、こちらで…お話しても?」 ぐ、と意を決したように顔を上げた山岡に、不意を突かれた松島が目を丸くして、それからふわりと表情を綻ばせて、優しく優しく微笑んだ。 「えぇ。脳外医局の松島雅(まつしま みやび)まで。いつでもお待ちしております」 「ありがとうございます」 柔らかな微笑みを浮かべる松島にホッとしたように表情を緩めて、山岡が再度深く頭を下げて診察室を出て行った。 「あっ、ちょっ、待っ、山岡っ…?」 日下部が一緒にいたことなど忘れたかのように、1人でさっさと去って行こうとする山岡を、日下部が椅子を蹴倒す勢いで慌てて追おうとした。 その背にふと、松島の声が掛かる。 「日下部先生」 「はい?」 「1つだけ、あなたにご忠告申し上げたいことがあります」 「あ、なんでしょう?」 「無理だけは、させないようにお願いします」 「え?無理?」 「はい。山岡先生は、何か激しく心に負担が掛かって、ああいった状態になってしまわれたんです」 「はい…」 「あなたのことだけを綺麗さっぱりと忘れ去られてしまい、不満や焦燥がおありでしょうけれど」 「っ、それは…」 ぐ、と一瞬息を飲み込んで、ふらりと泳いだ日下部の視線が、松島の言葉の肯定だと語っていた。 「無理矢理、記憶の扉をこじ開けようとするような振る舞いや、責め立てたり嘆いてみせたり。山岡先生にこれ以上の負担を掛けるようなことは、決してなさいませんよう」 「それはっ、もちろんです」 「僕は、十中八九、山岡先生の記憶喪失の原因となる引き金を、あなたが握っていると思っているんです」 「俺、ですか?」 「はい。ですからくれぐれも、あなたが不用意に山岡先生を刺激することがないように、お願いしたいと思います」 「っ…」 ぐ、と押し黙った日下部と、にこりと微笑む松島の視線が、バチバチと絡み合う。 「彼はすでに僕の患者です。僕は患者の心身の健康を、全力で守らせていただきます」 「っ、俺だって…」 「あのように頑なに、山岡先生の中からあなたの記憶が拒まれていることを、どうかお忘れなきよう」 にっこりと、その名の通り、優雅に艶やかに微笑んだ松島に、ぐっと日下部の目に力がこもった。 「俺は、山岡の一番近しい人間です」 だから決して、山岡に害をなす真似をするはずがない。 (その山岡の、心も、身体も、その全てを守るのは、俺だ。山岡の全てを受け止められるのは…) 強く拳を握り締めた日下部が、堂々と正面から松島を睨み据え、そのまま鮮やかに一礼した後、踵を返す。 ヒラリと翻る白衣の裾をはためかせ、「失礼します」の声と共に、診察室を出て行った日下部の背中を、松島は無言で見送った。 その目が薄っすらと細められていき、その手がタタンッと次の順番待ち患者を呼ぶボタンを操作した。

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