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第376話

「っ、山岡!山岡先生っ、待って…」 松島の診察室を出た日下部は、すでに脳外外来からはかなり遠く、受診待ち患者たちの間を抜けて向こうの廊下にいる山岡の後ろ姿を追いかけた。 「山岡っ、山岡先生!」 パタパタとサンダル履きの足音を響かせて、後を追ってくる日下部に、ふと山岡が気が付いた。 「あ…。あ、え~と、日下部、先生、でしたっけ?」 こてり、と首を傾げながら足を止めて振り返った山岡に、ようやく追いついた日下部が、ふにゃりと日下部らしからぬ笑みを浮かべて頷いた。 「うん。日下部千洋。おまえと同じ消化器外科医」 「はぃ…。っ、あの、えっと、オレ…その、すみません」 どうしたって寂しさを隠せない表情を浮かべてしまう日下部に、山岡の顔がずるずると俯いていく。 身を小さく縮めて、申し訳なさそうに肩を震わせる山岡に、日下部は小さく首を振って、そっとその肩を撫でた。 「謝らなくていい。おまえも好きで記憶を失くしたわけではないんだろうから」 「……」 「忘れてしまって戸惑っているのは、おまえもだろう?」 なっ?と微笑む日下部に、山岡の頭は俯いたまま上がらない。 ばさりと顔の半分ほどを隠す髪が、山岡の表情をまったく見え難くさせていた。 「でもオレ…」 「うん。まぁ、俺の記憶だけがすっぽりと、おまえの中から抜け落ちてしまったのは正直ショックはショックだけどさ」 「っ…」 「だけど、焦っても嘆いても仕方がないから。なっ?あまり気にせずに、ドーンと構えてろ。ドーンと」 おまえには難しそうだけど、と笑う日下部の顔が優しくて、山岡は俯いたまま、それでもそっと頷いた。 「ありがとうございます」 「うん?」 「いぇ…だって、日下部、先生のこと、オレ…。だって、そんな風に忘れられてしまって、不愉快だと思うのに、こんなに優しく…」 「クスクス。優しい?俺?」 「え?あ、はぃ。とても…そう、感じます、けど…」 ふふ、と悪戯っぽく笑みを漏らした日下部に、山岡の目がちらりと一瞬上を向き、またすごすごと俯いて行ってしまった。 「優しいか。そうか。でも俺、自他共に認めるどSだよ?」 「へっ?えっ?エスって…え?え?」 あの?っていうか、どの?っていうか、それ?とパニックになった山岡が、がばりと顔を上げる。 その仕草に従って、はらりと両脇に流れた前髪の下から、目を丸くした美貌が露わになった。 「クスクス。山岡先生も、俺によく意地悪されては、ひんひん泣いてたんだけど」 「えっ?え?なんですかっ?それ…」 「ふふ、忘れちゃった?」 「忘れ…っ、って、それは…」 「うん、忘れちゃったんだよね~」 記憶喪失だもんな、と笑う日下部に、山岡の目がキッと吊り上がっていった。 「意地悪ですっ!本当、分かりました。日下部先生がSっていうの」 「それはそれは」 クスクスと、どこまでも冗談めかして笑う日下部に、山岡はげっそりと吐息を漏らし、がくりと俯いた。 「なくなった記憶の上に、日下部先生はどSって書いておきますからね」 「うんうん、書いといて」 (それでいい。消えてしまったものはまた初めから。俺だけが覚えているのは辛いけれど、また何度でも上書きしてやり直して行けばいいんだ…) 「日下部先生?」 ふと、急に黙り込んだ日下部に、不安そうに山岡の目が持ち上がる。 「うん?いや、それにしても、山岡先生の、これまで培ってきた医師としての知識や経験の記憶が消えてしまわなくてよかった」 (そう。俺との記憶なら、何度だって俺が上書きしてやれる。手始めにまた、この顔を隠してしまう癖を直すことから、ってな) 「そ、う、ですね…」 「うん。診療には何の問題もないし。医師としての山岡泰佳は、俺にとってはスーパーヒーローなんだから」 「へっ…?え?だって日下部先生、エースって…」 だからオレなんか、と呟く山岡に、日下部はぎゅぅっと痛みを堪えるように眉を寄せ、山岡が俯いているのをいいことに、その顔を瞬時に必死で取り繕った。 「クスクス、よく言う。あんな、肝小腸同時移植を、恐るべきスピードで短時間に完璧に仕上げるその腕前で。ここではおまえにしかできない芸当だよ」 「え…見て…?」 「見ても何も、前立ちしてたんだけどな~」 「え…?あれは、光村先生じゃ…」 「う~ん、見事に書き換えがされてるのか。俺だよ」 「え…?」 「おまえが辛いとき、大変なとき、側にいて支えてやるのは、この俺の手で」 「……っ?」 「嬉しいとき、楽しいとき、一緒に未来を指し示すのはこの手なんだ」 「く、さかべ、せんせい…?」 「忘れてもいいよ。こうして何度だって、俺はおまえに伝えるから。どんなときもおまえと共にあるのは…」 ふわり、とその俯く頭に触れようとした日下部の手に、山岡の身体が反射的にギクリと強張った。 それに気づいた日下部が、頭に触れる寸前でその手を止め、ぎゅっと握り締めた拳をするりと身体の横に戻す。 「く、さかべ、せんせい…?」 「ん?あ、いや…」 (恐怖…?拒絶…?) 「うん。あ~、え~と、その、なんだ。戻るか。病棟」 うん、と言いながら、日下部はコクリと頷く山岡をジッと見つめる。 「おまえ、今日代診入れてるからな~。後でカルテチェック大変だぞ~」 「う…そうですね」 やだなぁ、と小さく笑う山岡に、不審なところはすでにない。 「とりあえず、部長のところに診断結果だけでも報告に行くか」 「はぃ、そうですね」 もっさりと、俯いたまま小さく頷く山岡に、日下部はスッと踵を返し、病棟へ向かうエレベーターがある、エレベーターホールの方へと歩いて行った。 長い前髪の間からチラリとその後ろ姿を見た山岡も、トテトテとその後を追うように歩いて行った。

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