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第377話
「それで、解離性健忘。中でも、選択的、もしくは系統的健忘ねぇ」
ふむ、と小難しい顔をする光村に、日下部と山岡はこくりと頷いた。
あれからすぐ、外科病棟部長室までやってきた山岡と日下部は、その途中、廊下でたまたま出くわした光村に、診断名を伝えていた。
「まぁとりあえず診療には問題ないということだね」
「はい。脳外の先生もそう言っていましたし、俺も保障します」
「山岡くんは?不安かね?」
ちらりと山岡の様子を窺った光村は、随分と以前のように、前髪でばっさりと表情を隠し、俯いてしまっている姿に苦笑を浮かべながら問いかけた。
「あ、その、オレは、仕事のこと、ちゃんと覚えているつもりでいますけど…1つの記憶が欠落しているって言われて…」
「ふむ」
「なんか、自分の記憶を信用していいのかわからなくて…」
ボソボソと、小声で告げる山岡に、光村は必死で耳を澄ましながら、うんうんと頷いた。
「なるほどなぁ。まぁこの態度を見るに、見事に元の木阿弥だが…」
「……」
「逆に、日下部くんが影響を及ぼす前の状態、といえば、そうなんだろうなぁ…うん」
「部長?」
「つまりは、だ。日下部くんと関わり始めた前の段階、とも言えるわけで、その時点で山岡くんは立派に医者だったから、まぁ診療に問題はないだろうね」
「あぁ、はい、そうですね」
「けれど山岡くん、きみがそれを不安に感じて、ストレスになるようだったら、休暇を取っても構わないよ」
きみ次第、と優しく微笑む光村に、山岡はうろうろと視線を彷徨わせてから、ぽつりと告げた。
「あの、本当にオレ、大丈夫だと思いますか?」
「私の目からはね」
「オレは…」
それでも困惑に視線を揺らす山岡に、ふわりと日下部が微笑んだ。
「じゃぁ山岡先生、俺が、つくから」
「え…?」
キョトン、と持ち上がった山岡の目に、にこりと笑う日下部の表情が映った。
「不安なら、俺がおまえについて、ちゃんとフォローを入れるから」
「っ、だけどそんな…」
「まぁ、多分必要ないだろうとは思っているけれどね。それでもおまえが、そうすることで安心を得られるなら、それでいいと思うし」
「だけど…」
「俺はね、おまえから、今の仕事を取り上げないことの方が…今まで通りの生活を送っていく方が、おまえにはいいんじゃないかって思うんだけど」
どう?と微笑む日下部に、山岡は申し訳なさそうにぐずぐずと俯いてしまった。
「っ、オレ…。その、仕事…続けていたいのは、そうです。けど、それで日下部先生にご迷惑を掛けることになるなら…」
「ないよ」
「え…?」
「迷惑じゃ、ない。言った?俺が迷惑だって」
「え…だけど、でも…」
「ふふ、言ってない。俺はおまえに頼られることが迷惑だなんて、少しも思ってない」
なぁ?と笑ってウインクをしてみせる日下部に、山岡はもっさりと俯いたまま、チラリと目だけを上に向けた。
「だけど…」
「ははっ、本当、懐かしいな、この会話」
「え…?」
「クスクス、光村先生、そういうことなので、よろしいですよね?」
不意に楽しげに笑ったかと思ったら、日下部は戸惑う山岡を置いて、くるりと光村に向き直る。
「ん?あぁ、まぁきみたちがよければ、それでいいんじゃないか。本当に、あの頃を繰り返しているみたいだねぇ」
以前にもそうやって、日下部を山岡につけた、と笑う光村にも、山岡はただ戸惑うだけ。
「クスクス、そうですね。ということで、山岡先生。何か不安や心配事があれば、俺を頼る様に。出来る限り側にいるようにするから」
「はぁ、えっと、よろしくお願いします」
「では、光村先生、シフト、担当患者すべて、このままで」
「あぁ、了解したよ。日下部くん、よろしく、頼んだよ」
「はい、部長」
鮮やかに微笑む日下部の、決意も覚悟も理解して、光村はそっと、山岡に気づかれないように、日下部に含みある視線とエールを送った。
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