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第378話
「ねぇねぇ、それで、結局、山岡先生って、記憶喪失だったんだって」
「そうそう。しかも、日下部先生に関すること、限定の」
なにそれ~、と叫び声が上がる、またもどこから仕入れてくるのか、相変わらず耳が早すぎる、噂話に大盛り上がりのナースステーション。
廊下の陰にはもうお決まりの、山岡がバッドタイミングで遭遇中。
「なんかもう本当、信じられないよね」
「うんうん。なんでよりにもよって、日下部先生のことだけなわけ?」
謎、謎、と呟く看護師たちに、廊下の陰で山岡も、こてりと一緒に首を傾げていた。
「むしろ、何を失くしても日下部先生のことだけは、って私は思ってたんだけどな」
「だよね~。あんだけラブラブで、相思相愛の2人の間から、片方の記憶がすっぽり消えるとかさ」
ありえない、と喚く看護師の声に、山岡が「ラブラブ?」「相思相愛?」と疑問に眉を寄せたところで、ふと後ろから2本の腕が伸びてきた。
「こら。や~まおかっ」
「ひっ…あ、日下部先生…」
ぴと、と両耳を突然塞がれてしまい、飛び上がった山岡が、ふらりと後ろを振り返る。
そこには悪戯な顔をした日下部が、これこれ、と一冊のカルテを片手に微笑んでいた。
「医局に忘れ物を取りに行くから待ってろ、って言ったのに」
「あ、すみません…」
くしゃりと俯く山岡の頭に、パコッと分厚いカルテを当てて日下部が笑う。
「か~お!」
「へっ?」
「なんで俯くの。人と話すときは、ちゃんと目を見る!」
「あ、う、その、でも…」
「でももくそもない。せっかく綺麗な顔をしているのに」
もったいない、と笑う日下部に、やっぱりずるずると俯いていきながら、山岡がもそもそと言葉を口にした。
「綺麗って、眼科に行ってください…」
「また言うか」
懐かしいね、と笑う日下部に、山岡の頭がのろのろと上がる。
「懐かしい…?」
「ふふ、こっちの話」
にこりと鮮やかに微笑む日下部に、山岡の頬がカッと赤くなり、その視線はすとんとまた落ちていった。
「っ…あの、ちょっとお聞きしたいんですけど、オレ、眼鏡、してませんでした…?」
俯いたまま、ぼそっと呟く山岡に、日下部の目がスゥッと細くなる。
その目がジッと山岡を見つめた後、クスリと意地悪く緩められていった。
「してたよ」
「え…?あ、じゃぁそれって…」
どこにやったか知って…?と目を上げた山岡に、日下部はますます意地悪くクスクスと笑った。
「俺が取り上げた」
「は?いや、え?」
キョトン、となった山岡の目が、無防備に日下部の眼下に晒された。
驚きのあまり顔を上げてしまっている山岡は、その美貌が露わになっていることに気が付いているのかいないのか。
さらりと分かれた前髪は、このところはもうすっかりみんなが見慣れてしまった山岡の美貌を惜しみなく晒していた。
「ふふ、ついでに言うならこの前髪も、束ねて上にとめて美貌晒してたんだけどね」
「えっ?え?びぼ…って」
「まぁそこまで行くのに何日も何十日も掛ったんだ。すぐにすぐってわけにはいかないだろうけどね」
「え?あの…」
「まぁゆっくりのんびりな」
1からやり直し、と笑う日下部が、今度はぽん、と山岡の背を押した。
「行くよ」
にこりと笑ってナースステーションの方へ歩み出す日下部に、ワタワタとしながらも慌てて山岡がその後を追いかける。
途端にバッと駆け寄ってきた看護師たちに、2人は一気に囲まれてしまった。
「ちょっと、日下部先生、これって本当なんですかっ?」
「あっ、マジだ。マジだこれ、またスカイテリアってるよ、山岡先生」
「え~、じゃぁ本当に覚えてないの~?日下部先生に関すること全部~?」
ショックぅ、と喚き立てる看護師たちに囲まれながら、日下部がどうどうと勢いをいなし、山岡が困ったようにオドオドと俯いた。
「こら、責めない。それからむやみに情報を与えない」
困っているでしょ、と苦笑する日下部に、うっかり見惚れた看護師たちがぽーっとなっている。
「だけど、こんなの、あんまりじゃないですか」
「そうですよ。お2人の絆がいかに強いか、私たち知ってるんですよ?」
日下部先生可哀想~と嘆く看護師に、日下部はふんわり優しく微笑んだ。
「うん。まぁ、それは俺も、自信持ってたんだけどね」
現実は、と儚く微笑む日下部に、1人の看護師がハッとしたように隣の看護師を振り返った。
「あ!え、でも、じゃぁ、逆にだよ?」
「なによ突然」
「その、絆の強い…強すぎる日下部先生のことだけを忘れたんだっていうことはだよ?」
「あ?あ~?」
「絆が強すぎるからこそ忘れたってことだったら…」
ぽつり、ぽつりと言いながら、結局何が言いたいのか迷子になってしまった看護師に、日下部もまた、ハッと何かを掴みかけた。
「俺だから、忘れられてしまった…?」
(原因が、そこに…?)
ぐぐっと眉を寄せ、思考の渦に飲み込まれ掛けた日下部の元に、突然それを吹き飛ばすような能天気な声が降って湧いた。
「こんにちわ~」
パッと思考を乱した日下部の視線がその声の持ち主を振り返る。
同時にナースステーション内にいたスタッフたちみんなの目も、一斉にそちらを向いた。
「どわっ。なんやねん、んな、一気に注目せんといて~」
驚くわぁ、と朗らかに笑うのは、この辺りではイントネーションが珍しい、関西勤めの泌尿器科医師だった。
「と、ら…?」
「おぅ。久しぶりやな。元気にしとったか?」
ケラケラと笑いながら、ひょいっと片手を上げて見せる仕草が、やけに似合う。
その軽やかな態度に思わず毒気を抜かれてしまいながら、日下部は身を翻してゆっくりと谷野がいるカウンターの方へ足を進めた。
「なんで?」
「あ~?おれがここにおる理由?」
「うん」
「いやぁ、ちょっと東で学会があってな。それに来てん。明日の朝早くからやし、前泊乗り込みついでに、おっちゃんの見舞いでもしたろ思うて寄らしてもらってん」
いいアイディアやろ?と笑う谷野に、日下部は納得して頷いた。
「なるほどね」
「せやせや。あ~、山岡センセも元気そうで」
ちらりとナースステーションの中に姿の見えた山岡を見て、谷野が笑う。
途端にその周りにいた看護師が、わちゃわちゃしながらカウンターの方まで出てきた。
「わぁ、とら先生、お久しぶりですぅ」
「きゃっ、きゃっ、相変わらずなイケメン従兄弟様っぷり」
「え?私服?めっちゃレアなんですけど」
きゃ~、と、さっそく新たな餌に食いつく看護師たちを横目に見ながら、日下部がそっと山岡の様子を窺う。
その山岡は、突如として現れた新たな人物に対して、見知らぬ人を見るような目…をしているわけでは、なかった。
「谷野先生…」
ぽつ、と呟いた山岡の口元は、日下部だけに見て取れた。
「分かるんだ…」
そっか、と口の中で小さな呟きを転がしながら、日下部はそっと谷野から離れて山岡の元に歩いて行った。
「覚えてる?谷野寅男」
「え?あ、はぃ」
「関係は?」
「え?関係…?あ、えっと、一時期、関西の病院から、うちのウロにいらしてた先生ですよね」
相変わらずもそりと俯いたまま、ぼそぼそと山岡が告げる。
「1度、患者さんの引き受けをして…。えっと、最近あちらの病院にまた戻られた、はず、ですよね…?」
違いますか?と恐る恐るといった様子で目線を上げていく山岡に、日下部は無言でにこりと微笑んだ。
「なるほど。そう記憶されたか」
「え、あの…」
「間違えては、ない。欠けまくってはいるけれど」
クスクスと笑う日下部は、なるほど都合よく、日下部に関する事柄だけを整理されてしまった山岡の記憶に、納得半分、寂しさ半分で頷いた。
「ちなみにこれ、俺の従兄弟」
「え…?従兄弟さん?」
初耳だ、という驚きを隠しもせずに、パッと顔を上げた山岡に、顔を引き攣らせたのは谷野だった。
「ちぃ?あの、山岡センセは、なにゆうとるん?」
「はは。まぁ、そういうことか。じゃぁとらと俺を巡ってひと悶着あったこととか、そうだ、あの人…」
「え…?」
「日下部千里」
不意に、山岡の目をジッと見つめた日下部に、山岡の頭はこてりと傾いだ。
「日下部千里さん?VIPで入院中の食道がんの…」
「うん。父だけど」
「え?へっ?あっ?日下部先生の…?あっ、あ~、そういえば、日下部…」
同じ苗字だ、と目を丸くしている山岡に、日下部は再び、「なるほどね」と曖昧な笑みを浮かべた。
「ちょっ、ちぃ?どゆことやねん、これは」
はぁっ?と混乱に喚き声を上げているのは谷野で、その足が遠慮もなくズカズカとナースステーションの中に踏み込んだ。
「まぁ、見ての通りというか、聞いての通りというか」
詰め寄ってくる谷野に、パッと両手を上げた日下部が、ふらりと笑う。
「見て、って…なんや、また、初めて会うたときみたいに、顔を髪で隠しよって…それに、聞いてって、なんや?もしや、記憶喪失とでもぬかすんかいな」
馬鹿も休み休み言えや、と呆れる谷野に、日下部がするりと視線をそらしながら、「ん~」とすっ呆け、山岡の顔はまたもストンと俯いた。
「は?いや、え?マジなんかいな」
2人の様子から、図星を突き当てたと悟った谷野が、目を丸くする。
行ったり来たりと山岡と日下部を交互に見遣った谷野が、最終的に山岡の上で視線を止めて、ハァッと長い吐息をついた。
「ホンマかい」
「みたいです…」
ボソッと答える山岡に、谷野が頭を抱える。
「いや、だけどおれが谷野寅男だっちゅ~ことは、覚えとるやないか」
「はぃ、そうですね…」
「そうですね、って。あ?え?え~と、じゃぁ、なんや?あの、いわゆる、逆行性健忘とかいうやつやのうて…」
おれもプシ科や脳外は専門外で詳しくないねん、と喚く谷野に、横から日下部が助け舟を漕ぎ出した。
「うん。大分レアケースらしいんだけど、ピンポイント、俺限定で、俺に関する記憶、がすっぽりない」
「なんやの、それ…」
「系統的健忘。俺にまつわる記憶だけが、失われて書き換えられちゃった、んだ」
ははっ、と力なく笑う日下部に、谷野がキッと山岡を睨んだ。
「ちぃやで!」
「はぁ…」
「山岡センセの、大事な大事なやつやねん!ホンマかいな!」
ガバッと山岡に詰め寄り、怒鳴るような勢いでその両腕に縋る谷野を、日下部が慌てて引き留めた。
「やめろっ、とら!」
「離してぇな!だって、あのちぃと山岡センセやねん。こんなん、こんなん、おかしいやろ…」
ありえへん、と喚く谷野の手が、日下部にベリッと剥がされ、ダラリとその身体の横に落ちた。
「おかしいやろ…」
ぽつりと寂し気に繰り返された呟きに、山岡が困ったように顔を歪めた。
「すみません…」
その力のない声に、谷野がハッとしたように顔を上げる。
「や、いや、すまん。悪かった。ちゃうねん、山岡センセを責めたいんやないねん。ただ、分からんねん。あんたらの絆は、おれかて間近で見てよぉ知っとる。それが、こんなん…」
理解できへんで、取り乱したわ、と笑う谷野に、山岡は小さく首を傾げて、へにゃりと笑った。
「原因はわからんのかいな」
「うん、今のところは、なにも」
「そっか。ホンマ、ゆっくり話でも、思うて来たんやけど…」
と、そこまで谷野が呟いたところで、不意にプルプルとナースコールが鳴り響いた。
「っ、605号室の高田さん。オレ行きます」
パッと表情を切り替えてしまった山岡が、素早く身を翻してナースステーションを駆け出そうと床を蹴る。
「あっ、あたし今日担当…っ」
看護師の1人も慌てて、処置道具一式を乗せたカートを引っ張り出し、タタタッとその後を追っていく。
「あ~?」
「あ~、あれは、もうああなると状態が落ち着くまで他のことが全部すっぽ抜ける」
「せやろな」
「とりあえず、医局に行く?コーヒーくらいなら淹れてやるよ」
時間あるんだろ?と誘う日下部に、うん、と頷いた谷野が、すでに姿の消えてしまった山岡が駆けていった方の廊下をぼんやりと眺めていた。
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