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第379話
そうして、山岡がどうにかナースコールの処理を終え、医局に戻ってきたとき、中では谷野が我が物顔で休憩用のソファを占領し、コーヒー片手にお茶菓子をもくもく食べていた。
「あ、っと、お疲れ様です」
「お~、山岡センセ、お疲れさん」
「お疲れ、山岡先生。ほら、とら、そこ空けろって」
シッシッ、と手で谷野を追い払う仕草をしながら、足も出ている日下部が、谷野をソファの隅に寄せる。
「あぁもう乱暴やな。相変わらずのちぃ様や」
扱いが雑!と喚く谷野をさらりと無視して、日下部がくるりと山岡を振り返った。
「どう?落ち着いた?」
高田さん、と首を傾げる日下部に、山岡の頭が上下する。
「はぃ。やっぱり痛みが大分出ているようで…オペのタイミング、どこに持って行けばいいか悩みますね…。もう少し状態が安定してから、と待つつもりでいたんですけど…」
難しいなぁ、と呟く山岡は、真剣な医師の顔をしている。
日下部が惚れた、命をただ真っ直ぐに見据えるその姿。
「うん~。すぐに切りたいのは山々だけど、このタイミングはな。体力落ち切ってるし、オペには耐えられない。ちょっと悪いよな~、このところ」
「はぃ…」
カンファだな、と呟きながら、テクテクと自分のデスクに歩いて行き、開いたパソコンにカタカタと何かを打ち込んでいく。
その一連の様子をジッと見つめながら、谷野がズズッと手元のコーヒーを啜った。
「普通やん」
「え…?」
「なんも変わらんやん。医師としてもしっかり仕事をこなしとるし、自分のデスクにも迷わず行きよった」
「まぁ、ね」
「ちぃとも普通に会話しとるやん」
俯いてボソボソ言っているのはあれやけど、と言う谷野の首が、大袈裟に傾く。
「ホンマに、ちぃのことだけ忘れとるん?」
「うん、確かだよ」
「恋人やゆうこと?」
「それも。一緒に暮らしていることも、そもそも俺の存在そのものも、初めは分かっていなかった」
「へぇ?」
「日下部?うちの新しいお医者さんですか?な~んて聞かれた日には…まぁ、参ったよね」
お手上げ~と冗談めかして笑う日下部だけど、その目の奥が傷ついていることに、長い付き合いの谷野だから気づいていた。
「茶化さんと、ええねん、ちぃ」
「うん。でも、ふざけてでもいないと、どこまでも落ちるっていうかね」
「分からんでもないけど…。せやけど、そしたら、なんかちぃがその引き金を引いたんとちゃうん?」
ちぃのことだけ忘れるなんて変やん、と考え込む谷野に、日下部がそれこそ両手を上げて、お手上げだと首を振った。
「心当たりがないんだよね。まったく見当もつかない」
「うぅん…あれや、ちぃが山岡センセが心底嫌がる、ほんっとうに酷いことをしたとか」
「あるわけない」
「やな。ほんならあれや、ちぃが山岡センセを裏切った…?いや、ないな」
あの溺愛っぷりは、誰が見ても明らかや、と肩を竦める谷野の目が、チラリと山岡に向けられる。
真剣な顔をしてパソコンの画面を睨んでいる山岡の横顔は、かつてのように髪に隠され半分もその表情の動きを教えてはくれない。
「なんでやろ」
「それが分かれば苦労しないんだけど」
「うん。せやけど、ほんまに信じられんな。あの山岡センセが。あれだけちぃに全てを委ね切ってた山岡センセが、そのちぃをなかった人にしてしまうなんて…」
天変地異や、と谷野が切なく呟いたところに、医局のドアが開いて、ひょっこりと原が顔を見せた。
「ただいま~…って、あれ?とら先生?」
室内に入ってすぐ、ソファで寛ぐ谷野に気づいたか、原が目を丸くしている。
「お~、お久しぶりやな。原センセやったっけ?元気にしとる~?」
「あ、はい、原元一、元気です」
ビシッとふざけて敬礼して見せながら、原がにかっと人好きのする笑顔を見せた。
「うんうん、若くて元気があってよろしい」
「あは、どうも。それで、えっと、とら先生、どうしてこちらに?」
先程、ナースステーションにいなかった原の首がこてりと傾く。
その様子を可笑しそう見つめながら、谷野がカラカラと口を開いた。
「まぁ、学会でちょっとな。ほんでついでに千里おじちゃんの見舞い、にかこつけて、ちぃらの様子窺いにな」
「はぁ、なるほど、そうでしたか」
「せや。そしたら、なんや。山岡センセがこないなことになっとってなぁ」
驚きや、と告げる谷野に、原がハッとしたように「そういえば…」と日下部に視線を向けた。
「山岡先生、解離性健忘なんですって?」
そこで聞きました、とナースステーションの方を示す原に、日下部が苦笑しながら頷く。
「ほぇ~、なんか、メジャーな逆行性のやつじゃなくって、日下部先生に関すること限定で喪失する記憶喪失だとか…本当ですか?」
「うん、まぁ、そうみたいね」
「っ、マジか…。えっ、え~」
この人たちが…と心底驚いている様子の原に、谷野がウンウンと我が意を得たりというように頷いた。
「ちょっと、重大事件じゃないですか」
すたたたっ、と山岡の後ろを横切って、谷野の側まで近づいてきた原が、こっそりと山岡の方に視線を流しながら囁く。
「あと少しでおれが去っていくことになっているこんな時に…。山岡先生も山岡先生で、もうすぐ海外に行ってしまうっていうのに…」
ねぇ?と首を傾げる原に、谷野の目がキョトンとなった。
「原センセ、去るて?」
「え?あ、あぁ、おれ、消化器外科追放されちゃったんですよね~」
「は?追放?」
「っていうか、クビ?他科で修行して出直して来い~って」
あはっ、と笑う原に、谷野の目がジトーッと日下部に向いた。
「またしょうもない鞭をふるいよったな?」
「しょうもなくないよ」
シレッとそっぽを向いてのたまう日下部は、谷野の悪友であり悪ガキちぃとらコンビの従兄弟様。
「まぁおれがかんっぜんにやらかしたのも事実でしてね」
「双方納得済みなんやったら、部外者のおれが口を出すことでもないんやけど…」
「はい、そこは、もう、ばっちりと。ですから、おれのここでの研修期間もあと少し」
「ほんで?山岡センセは、海外に…って、えぇっ?海外?」
「はい」
「なんやの、それ。聞いとらん。っていうか、海外~?」
今度こそ、顔から零れ落ちそうなほど目を見開いた谷野の言葉に、日下部は苦笑しながらうんうんと頷いた。
「腕を見込まれての引き抜きだよ」
「ホンマか…さすがやわ。なんてことないオペも、見惚れるほどの手腕だったしな」
「だろ?ついこの間も高難易度のオペをサラッとこなしてな。向こうの医療機関の視察団に見初められちゃったわけ」
「すごいなぁ。ちぃが絶賛してただけはある…って、ちゃうねん、そうやないねん」
ふむふむ、なんて頷きながら話に乗っていた谷野が不意に、ベシッと1人突っ込みするように手の甲をひらりと翻した。
「海外やて?」
「だから、そうだと…」
「行くんやて?山岡センセ」
「断るわけがないだろ」
「言ったんか?」
「え?」
「山岡センセが、オレ、海外から声が掛かったから、行ってきますって、そう言ったんか、って聞いとるん」
どや?と尋ねる谷野に、日下部の目がふらりと宙を彷徨った。
「ん~?山岡は、言って、な、い、かな…」
「で?」
「で、って。でも海外だぞ?こちらから頼んでではなくて、向こうからぜひに、って言われてるんだぞ。そんなの行かないわけがないし」
「で」
「だから、俺はおめでとうって。応援してるから、頑張っておいでって、ちゃんと背中を押してやって…」
ジリジリと、何故か険しくなっていく谷野の表情を不思議がりながらも言葉を続けていた日下部に、谷野が心底呆れたように派手な溜息をついた。
「はぁぁぁぁぁぁぁっ」
「なに」
「ホンマ、わからんの?」
「なにが」
「だから、それや」
「だから、なにが」
「記憶喪失」
「は?」
ビシッと日下部を指さし示した谷野に、日下部の口が珍しく間抜けにポカリと開いた。
「き~お~く~そうしつの原因や」
「原因?」
「海外留学や。山岡センセ、ホンマは行くかどうか迷ってたんとちゃう?」
「え?いやまさか」
「だって、海外やぞ。ちぃと、遠く離れなあかん。それが、不安で、嫌で、海外、迷ってたんとちゃうんか?」
なぁ?と詰め寄る谷野に、日下部は目を丸くしたまま「まさか、そんなわけ」と困惑気味に呟いていた。
「なんでわからんねん」
「わかるわけないだろ。山岡が、俺と海外留学を天秤にかけて悩むなんて、そんなことをするわけがない」
「なんでやねん。悩むに決まっとるやろ。行きとうないに決まっとるやろ。ちぃと離れてまで、海外やで?山岡センセがそっちを選ぶて、なんで思うねん。思えるねん」
「……」
「わっからんわ~。原因、ずばりそこやん。そんなん、ちぃが1人勝手に、ケロッと大丈夫、行って来いなんて手を振ったからよって…山岡センセ、壊れるに決まっとるやん!」
ア~ホ~か!と叫ぶ谷野に原が困惑し、日下部が「あのなぁ…」と呆れたように肩を竦めた。
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