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第380話
「分かってないのはとらだろ?」
どけ、と谷野の側にいた原を退かして、日下部がドサリと谷野の隣に腰を下ろす。
「あの山岡だぞ?」
「せや。あの山岡センセや」
「何を置いてもまず1番に、人命を優先する医師だ」
「ただ唯一、ちぃだけが灯りのお人や」
「は?」「え?」
びしり、と言い切った2人の言葉に、疑問の声が重なった。
「「………」」
思い切り意見の相違をみて、日下部と谷野がむっつりと押し黙る。
ジッと互いを探る様に見つめ合った2人が、どちらからともなく相手を小馬鹿にしたように、フッと笑みを漏らした。
「賭けてもええで、ちぃ。確かに山岡センセにとって、この世で一番重いのは、患者の命かもしれん」
「ふん、かも、じゃなくて、そうなんだよ。海外スカウトの話が来ていて、向こうの医療技術をモノにできるかもしれないチャンスが目の前にあって。それによってさらに多くの命を救えるかもしれない可能性が広がるんだ。山岡がそのチャンスを逃すわけがない」
「せやけど、悩んだんや」
「悩んだ…?」
「せや。山岡センセにとって、患者の命は重い。せやけどそれと同じくらい…いや、それ以上に、ちぃとのことは重いんや」
何故わからん、と苦々しく微笑む谷野に、日下部は頑なに首を振った。
「あり得ない」
「あり得る」
「ない。断言できる。だって山岡は…いざという時に、俺の命さえも、切り捨てられる、そう、はっきり言ったことがある」
きっぱり断言する日下部の脳裏には、先日の山岡の姿が、はっきりと浮かんでいた。
誰かの命を救うため、日下部の命を切り捨てなければならなくなったとき、それを実行できると、はっきり言い切った山岡を。
「その山岡が、たかだか俺と離れ離れになりたくないから、こんな大きなチャンスをふいにする?馬鹿な、ありえない」
ぬかせ、と鼻で笑う日下部に、谷野はくしゃりと顔を歪めた。
「しようと考えたんや」
「あり得ない!山岡は何よりも、人命を救うための手段と、知識と、技術を、ただひたすらに欲している人間だ」
「それでも!それでも山岡センセは、迷ったんや。だって山岡センセにとって、ちぃは…」
ふらりと室内に逸らされた谷野の目が、バチリ、と山岡の目と合ってしまう。
知らず知らずのうちに大きくなってしまっていた声に、驚いたようにこちらを見ていた山岡の目が、さらに大きく見開かれていった。
「え?なんや?おいっ、山岡センセっ?」
くるりと目を丸くした山岡の顔が、そこから一気にくしゃりと歪む。
サァッと血の気が引いていく山岡の顔に、谷野が焦った声を上げたときには、山岡はぐしゃりと頭を抱えて、そのままデスクに突っ伏していた。
「っ、つっ…い、たい…痛いッ…」
「え?はっ?山岡っ?」
驚き慌てたのは、谷野だけではなくて。
ハッとしてソファから立ち上がった日下部が、急いで山岡の側に駆け寄る。
それを見ていた谷野と原も、慌てて日下部の後に続いた。
「おいっ、山岡っ?山岡!大丈夫か?どうしたっ」
「痛い、頭が…割れっ…」
ぐぅ、と呻きながら、髪をくしゃくしゃに掻き混ぜる山岡の背を、日下部がそっと撫でる。
目ではその全身をくまなく観察しながら、パッと近くにいた原に叫んだ。
「仮眠室!ベッド1つ空けて、山岡を運べるように準備して」
「分かりましたっ」
指示を受けた原が、サッと素早く身を翻す。
脈を取り、床に跪いてその顔色を下から覗き込んでいた谷野が、ゆるりと小さく動く口元をその視界に捉えた。
「なに?なんやて?」
吐息ほどの小ささで、ぽつり、ぽつりと漏らされる山岡の言葉を、聞き漏らさないようにと耳を澄ませる。
背中をさすりながら、そんな2人の様子を見下ろしていた日下部もまた、そっと耳を傾けた。
「あ、ぅ、ぐぅ…オレ、海外…」
「うん、うん」
「海外…行くんです。喜ばしい、こと…だから。オレは…」
「うん?」
「行く。行くんだ、だから…だから…あ、うぅ、う…っ」
がぁっ、と苦痛に歪んだ声を吐き出し、山岡が髪の毛を強く引っ張る。
その手がふらりと力を失くし、ズルズルと身体の横に落ちていった。
「え?あ、おい!山岡っ…?」
「ちぃ、倒れる…っ」
支えぇ、と叫んだ谷野の声に、反射的に日下部がその身体を捕まえる。
「だ…け、ど……」
ぐらり、と椅子の上で傾いた山岡の身体が、どさりと椅子から落ちてしまう寸前で。
どうにか抱き止めた日下部の腕の中に、すっぽりとその身体が収まった。
「っ、くそ…」
ぐったりと目を閉じ、全体重を日下部に委ねる山岡の意識は、もうない。
ふらりとした無意識らしき声を最後に、気を失ってしまった山岡の身体を、日下部は気合を入れて持ち上げる。
「山岡…っ」
呼び声に、ピクリとも反応しない山岡の身体を抱き上げて、日下部はゆっくりと医局の出入り口に足を向けた。
「ったく、なんだって言うんだ…っ」
苦しそうに声を荒げる日下部は、腕の中でぐったりと意識を失っている山岡を、挑むように見下ろす。
そんな2人の様子を側で見ていた谷野は、自分の予測が正しいことを、確信していた。
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