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第381話

そうして仮眠室に山岡を運んだ日下部は、ベッドに寝かせた山岡のバイタルチェックを一通り済ませ、異常がないことを確認してから、そっと後ろの2人を振り返った。 「大丈夫だ。呼吸も脈拍も安定している。とりあえず、静かに眠っていると思っていい」 「そか」 「そうですか。はぁぁっ、びっくりした」 流れでその場にいたままだった原と、日下部の後をついてきた谷野が、ホッと息を漏らす。 スヤスヤと、苦痛のくの字もない様子で安らかに眠っている山岡を見て、日下部がそっとその髪を撫でた。 「ちぃ」 ふと、そんな日下部の後ろ姿を見つめていた谷野が、小さく日下部を呼ぶ。 ピクッと山岡に触れていた手を震わせた日下部が、「なに?」とそのままの姿勢で小さく呟いた。 「山岡センセ、安定してるんなら、ちょっとええか?」 「っ…うん」 「ここじゃあれやし」 「分かった。医局に行こう。原、悪いんだけど少しだけ、山岡の様子を見ていてくれるか?俺が戻るまででいいから」 それほど長くは掛からないはず、と言う日下部に、原はピシリと背を伸ばして「はいっ」と元気のいい返事を寄越した。 「悪い、頼んだ」 「お任せ下さいっ」 安い御用だと山岡のベッドの脇に移動する原に、谷野も「すまんな」と目で合図しながら、日下部を伴って仮眠室を出て行く。 カチャン、と後で仮眠室のドアが閉まったところで、先に廊下に出ていた日下部が、「ふぅぅっ」と長い息を吐いた。 「俺の、せいか?」 まさか、という思いと、どこかでもう確信し始めているという、どちらともつかない声が、日下部の口からぽろりと落ちた。 「医局に行ってからや、な?」 こんなところで立ち話する内容じゃない、と言う谷野に促され、日下部たちは連れ立って再び消化器外科医局に舞い戻った。 「さてと。とら、コーヒー淹れなおそうか?」 「ん?あぁ、すっかり冷めてんな。せやけど、もうええわ。ちぃが落ち着きたかったら、ちぃだけ淹れるとええ」 「ん…。俺もいいかな。それより…」 「あぁ。まぁ、座りぃ」 言いながら、すでにドサッと我が物顔で医局のソファに腰を下ろした谷野が、日下部のものであろう事務椅子を顎で示す。 「はっ、ったく、図々しいんだよ、とらは、いつも」 「はん。今さらちぃ相手に遠慮してもしゃーないやろ」 何年の付き合いや、と笑う谷野に、日下部は苦笑しながら、コロコロと自分の椅子を引っ張ってきて、ソファの前に陣取って座った。 「それで?話って」 「うん。今さら、ちぃ相手に遠慮してもしゃーないから、はっきり言うけどな、分かったやろ」 「っ、っ…」 ビシッと言い切った谷野に、ぐっと言葉を詰まらせた日下部の頭が、ゆらりとゆっくり上下する。 「おれは意外と見えとんねん。当事者ちゃうからな」 「うん。なんか前にもこういうこと、あったね、そういえば」 かつて、その時も。完全にドツボに嵌った日下部よりも、谷野の言葉が正しかった。 その経験がある日下部は、今度は素直に谷野の言葉を受け止めた。 「俺とのこと…。山岡、天秤に掛けたんだな」 「せやろな。山岡センセの中の、ちぃが占める割合は、相当でかいで。ちぃが思ってるよりも、ずっとな」 「そっか…」 「あぁ」 はぁっ、と困惑と理解を半々に含んだ日下部の吐息に、谷野は柔らかく頷いた。 「ちぃは、山岡センセにとって、絶対的な存在や」 「え?絶対的?」 「せや。生まれたての雛が、初めに見たものを親と思う、刷り込みと一緒や。山岡センセに初めての恋を教えたのはちぃやろ。ただひたすらに愛されることを教えたのは、ちぃや」 「っ、そ、れは…そう、かもしれないけど…」 にぃっ、と笑って語る谷野に、日下部の目は困惑に揺らいでいた。 「言っとったやん。山岡センセは、暗闇が、ちぃがおると明るくなるて。山岡センセの中で、ちぃが唯一の灯りやねん。それが離れてしもうたら、山岡センセはまた何も見えない暗闇の中に放り出されんねん」 「っ、や、だけど、それはもう…」 「もうもくそもないねん。山岡センセにとってはな、ちぃだけが、ずっと、ず~っと、唯一の灯りやで」 たとえ他に友がいても。同僚がいても、仕事があっても、他の何があっても。 山岡の中に灯された明かりは、日下部千洋という、最愛の男、ただ1つなのだ。 「唯一絶対のその場所だけは、誰も代わりになれん。誰にも代わりはおらんのや」 「っ…山岡っ」 きゅぅ、と苦しそうに顔を歪める日下部を、谷野はただ穏やかに見つめていた。 「山岡センセはさ…。前に、ちらっとだけ聞いたやんな?山岡センセにはおかんがおらんて話」 「っ、うん。言ったね。でもそれが?」 「うん。まぁなんや、そう聞いたら、事故や病死やってはっきり言わんものなんやったら、それが虐待や捨て子やっちゅ~くらいには、おれにも想像がつくねん」 「っ、と、ら…」 「あぁ、暴きたいわけとちゃうで。だけどただ、当りやんな?したら山岡センセは、そういう、なんていうか、近しい人に置いて行かれること?離れ離れになること?…それに、本人に自覚があるかどうかは別として、トラウマがあるんとちゃうんかな」 ん?と首を傾げる谷野に、日下部はぐっと一気に真剣な顔になった。 「っ、言われて、みれば」 山岡はその後も、どん底の中から掬い上げてくれた山岡さんに…養父にも、置いていかれている。 母との記憶で、1度は昏睡状態に陥ったことがある。 「っ、山岡は、本来だったら誰よりも愛してくれるはずの人から…初めて家族の愛を教えてくれた人から…あいつはっ、いつも、置いてけぼりにされているんだ…」 「せやろ……。山岡センセは、その絶望を、よぉ知っとる」 「っ…ん」 「その暗闇を、痛いほどによぉ知っとるんや。その真っ暗闇の中で、毎度、歯ぁ食いしばってもがいて苦しんで、それでも必死に生きてきよったんやんな?」 「っ、そう、だな…」 「そこで、ちぃと会ったんや。辛くて苦しいばっかの人生の先で、ようやっとちぃに出会ったんや」 「っ!」 ぐしゃり、と顔を歪ませた日下部が、そのままぐっと自らの頭を抱え込んだ。 「灯りやで」 「っ…うん、あぁ」 「ちぃだけが、ようやっと、山岡センセの暗闇の中に差した灯りやで。俺だけは何があっても山岡センセの手ぇ離すことはないんやて。山岡センセは幸せになってええんやて。愛して、愛し抜いて、そう信じ込ませたのは、ちぃやんな?」 「っ、んっ…」 「顔隠して俯いて、前を見るのを恐れていた山岡センセに、愛して愛して愛し抜いて、先を、希望を、光を見ることを教えたんは、ちぃや」 「っ、そうだ。そうだっ…」 「そのちぃを、信じて、手を取った、山岡センセやねん」 くぅっ、と谷野の言葉を噛み締めて、深く深く頭を抱えて俯く日下部に、容赦のない谷野の声が降り注いだ。 「全てや。山岡センセの、すべてはちぃや。唯一の灯りが、ちぃや。せやからその側を離れんのは……山岡センセにとって、どうしようもないほどの恐怖やねん」 「っ…」 静かに落ちた谷野の言葉に、日下部は頭を抱えたまま小さく呻いた。 「それを、離すんは…山岡センセにとって、また暗闇の中にダイブするんとおんなじだけの覚悟が必要なんや」 「っ…そ、れは」 「それをっ…それをちぃが、あまりにあっさりと、よかったな、行って来いなんて、背中を押してからに…」 「っ…」 「不安にならないわけがないやろ!せやのにちぃが平気な顔して送り出そうとなんてするから…っ」 「っ、俺…」 サッと色を失くす日下部の顔を、痛々しいものを見るように眺めながら、谷野はきゅぅ、と口元を歪めた。 「分からなくはないんや。ちぃの気持ちもな、分かるんやで?」 「とら…」 「寂しいやんな。ちぃだって、ホンマは山岡センセが海外に行ってしまうこと、嫌や、って思うとるんよな?」 「っ、そ、れは…」 「はは。分かっとるんやで?それでもプライドの高いちぃ様やもん。山岡センセの栄転を、嫌や、行かないでくれ、なんて、みっともなく縋りついて阻止なんてでけへん」 「っ…俺は」 「同時に、医師の山岡センセを、心から尊敬しとるちぃやもん。自分が障害に…邪魔に、足枷に、なったらあかんて…。そうも思って、笑って、背中を押した」 「っ、とら…」 ぐっと眉を寄せる日下部の顔が、谷野の言葉を全面的に肯定していた。 「せやけど、な」 「っ、俺が、そうしたことが」 「せや。山岡センセを突き放した」 「っ…」 「山岡センセは、きっと…」 「っ、俺っ…」 「ちぃの、偽物の言葉の気配を…」 「っ、俺は…っ」 「せや。せやから山岡センセは、失くしてしまった」 ピシリ。残酷な優しさで、きっぱりと言い切る谷野の言葉に、日下部の顔がぐしゃりと潰れた。 「笑って手放されるその先を、山岡センセは、もう見とぉなかった」 「っ、知ってたっ。知ってる…っ。山岡の母と言う人は…っ、山岡に、自分が帰るまでここで待てと、きっと微笑んで、住んでいたアパートに山岡を置き去りにしていった」 「っ…」 「山岡汰一さんはっ…おまえになら治せると…己の病気が絶望的なことを知っていながら、山岡に、自分と歩く未来を見せてっ、亡くなって逝ったんだ…っ」 「そ、か…」 「残酷な嘘を…っ。笑顔で吐かれる残酷な嘘を…山岡は信じて…っ、信じさせて…みんな、山岡を置いていった」 「っ、ちぃ…」 「そっか。俺も…」 「ちぃ」 「俺も…っ、同じことを、山岡にしてしまったのか。偽りを孕んだ笑顔を見せて…山岡に、笑って、海外行ってこいって…。そこに、山岡は、無意識に偽りの気配を感じ取って…。山岡はきっとまた自分は1人ぼっちにされるのだと、無意識に身勝手に終わりの足音を聞いてしまって…。っ、山岡の、トラウマを、抉ったのは、俺、だ…」 かはっ、と苦しい吐息を吐き出した日下部に、谷野は静かに目を伏せた。 「山岡センセは、きっと、ようやく手にした愛の傍らにあることの幸せに、ちぃが思うよりずっと深く浸っとったんや。海外留学と天秤に掛けて、悩み抜くくらいにはな」 「っ…ん」 「せやからきっと、離れとうないって、たった一言。それが、言いたかったんやないやろか。ちぃからそれが、聞きたかったんや、ないんやろか…」 「っ…」 微かな吐息を漏らした日下部に、シーンとわずかに、医局の空気が静まり返った。 「せやけどちぃが笑うから。せやけど山岡センセは誇りのある医師やから…」 「言え、ずに…」 「せやろな。ほんで、どうせ離れる、どうせ手放さなあかんものなんやったら、その前に消してしまお、て。遠く離れて、ちぃを失って、また絶望するくらいなら、先に失くしてしまお、て。別離の恐怖に震えるくらいやったら、初めからないものに。灯りを知る前の、ちぃと出会う前に戻るんや、と。初めから持たなければ、失くすこともない」 「っ…」 ゆるりと頷いて、一息に言い切った谷野の口が閉じられれば、あとはシンとした沈黙が、十数秒に渡って医局に降り立った。 ぐぅ、とか、うぅ、とか、時折小さく呻き声を上げる日下部を、谷野は黙って眺め続けた。 そして。 「泣いとるん?」 「っ…」 不意に、ぽつりと落とされた谷野の声に、日下部は俯いて頭を抱えたまま、フルフルと小さく首を振った。 「責めとる?」 「っ…ん」 今度はゆっくりと縦に振られる日下部の頭を見て、谷野がはぁっと長い吐息をついた。 「どっちをや」 「どっちも」 ぼそりと答えながら、日下部がようやく頭をノロノロと持ち上げていく。 「そっか」 ぽつりと呟く谷野に、日下部はカチリと視線を合わせて、ふにゃりと表情を崩した。 「あぁ。山岡の、本音に気づかずに、山岡にとって海外スカウトは何を置いても一番に優先すべきものであると決めつけた俺も」 「ん…」 「俺に…っ、俺の勘違いに、ただ沈黙して、自分の想いを伝えることを怠って、勝手に1人で思い詰めてしまった山岡もっ…。言ってくれたら…っ、そうしたら、たかが十数時間の海の向こうの距離。そんなもの、なんの障害でもないと、分からせてあげられたのにっ…。1人で勝手に…その程度の物理的な距離に揺らいでしまった山岡の心もっ、どっちも責めてる」 ははっ、と力なく微笑んで、額を押さえた日下部に、谷野はただ優しく目を細めた。 「せやな」 ふんわりとただ事実を包み込むだけのような悪友従兄弟様の声に、日下部の苦笑が色濃くなる。 その顔がぐにゃりと歪み切って、ふわりと医局の天井が仰がれた。 「あ~あ、なんで俺は、簡単に考えたんだろうな」 「ちぃ?」 「山岡がさ、極限状態のとき、俺のことを切り捨てられるって言った意味はさ、あいつが、俺を諦めても平気だってことと、同義じゃないんだよなぁ」 「っ、そんなん、当たり前やろっ?」 「うん。その『当たり前』が、俺には分かっていなかった。山岡の、医師としての心構えが、あまりに恰好良すぎていて」 「っ、ちぃ…」 「思えば山岡は言っていたんだよ。本当は嫌だって。諦めなくちゃならない命があるのは嫌だって。泣きながら」 「ん…」 「山岡はさ、きっと本当に、どうしてもどうしようもないときに、俺の命を諦める。けれど…だけどそれで、悲しまないと言ったら、それは違ったんだよな」 あはは、と乾いた笑い声を上げて、両手で顔を覆う日下部の声は、微かに震えて、泣いているようだと谷野には聞こえていた。 「絶望…」 「せやな」 「俺の手を離した山岡に残るのは、絶望、か」 「ん…」 静かに同意する谷野が、するりと衣擦れの音を響かせて、ソファーからふわりと立ち上がった。 「それこそどん底の真っ暗闇か。医師として、誰かの命を救ったことを誇りには思うけれど…その裏であいつは、自分の苦しみも悲しみも、全部己の中に飲み込んでしまうんだ」 「ん…」 「俺が言ったんだったな…。山岡は、全てを吸収し尽くす漆黒。一点の曇りもない」 「せやったな」 「どんな痛みも苦しみも、山岡は全部自分の内に受け止めて、それをその身体一身に背負いこんで、それでもあいつは、そこに両足を踏ん張って真っ直ぐ立つんだ」 「っ…」 「その目に映るのは無限の暗闇で、その目は曇りのない漆黒で。その中でただ『命』を1つ、救えてよかったと。自分の悲しみも苦しみも全部己で吸収して、それでもオレは医者だから、って。あいつは鮮やかに微笑んで見せるんだ…っ」 きゅぅ、と握り締められた日下部の手の上に、ふぁさぁっと谷野のハンカチが落とされた。 「っ…泣いてない」 「わかっとる」 「泣いて、ない…っ」 「あぁ」 ふわり、と頷く谷野の言葉に、震える吐息が医局の空気を揺らめかせる。 「っ……山岡にとって俺は…」 「……」 「っ、俺にとって山岡は…っ」 ただ、互いに、深く、重く、愛し合った2人の、大きな大きな溝だった。 互いに互いの愛を、あまりに軽く見過ぎたが故の、悲しい現実が、そこに横たわっていた。

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