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第382話

「はぁっ…」 スンッと軽く鼻を啜っての、日下部の吐息が落ち、ふわりと谷野の掛けたハンカチが取り去られる。 「悔やんでいても仕方ないよな」 「せ、やな」 キシッと音を立てて、椅子の背もたれに背中を預け切っていた日下部が、上半身をよいしょっと起こす。 「たかだか飛行機で十数時間の距離。それで離れてしまうと恐れられる程度にしか、俺たちの想いに繋がりはなかったと思わせていたのかと思うと、山岡を責めたくて責めたくて仕方がないけど」 「まぁなぁ」 「その山岡に、この先救う命のための技術と知識を高める機会と釣り合うほどに、想われていたことに気づけていなかった俺も、悪い」 「せやな」 バッサリと同意する悪友従兄弟様に、ジロッと恨めしい視線を送ってから、日下部は反動をつけて、椅子からひょいと立ち上がった。 「まぁ結果、山岡の俺の記憶が失われてしまったことは、揺るぎようのない事実だしな」 「っ、せや、な」 「さて、ここからどうするか、だ」 ひらり、と白衣の裾を翻し、日下部が医局の出口に足を向ける。 「ちぃ?」 「今さら、海外留学に関して話し合おうと言ったって、もう遅い」 「せやなぁ」 「互いの未来を描こうにも、山岡の記憶の中に、もう俺はいない」 「ん、ならどうするん」 かちゃん、と医局のドアに手を掛ける、日下部の白衣がひらりと翻った。 「刻み込み直す」 「ふ、ぇっ?」 「あいつの中にある光は、やっぱり俺であって欲しいから」 「っ、そ、か」 「あいつと共に歩くのは、やっぱり俺でありたいから。もう1度、今度はもっと慎重に、あいつとの明るい未来を描き直す」 にっ、と笑って、谷野に向かって胸を張る。 なるほど、やっぱりちぃ様だ。 「せやな。それでこそちぃや」 「ん。そうと覚悟を決めたら、行くぞ、仮眠室」 「あぁ」 「原も待っているだろうしな」 いい加減、解放してやらないと、と笑う日下部が、ふわりとドアに向き直って、その向こうへと出て行った。         * その頃。 仮眠室内では、山岡がゆるりと目を覚ましていた。 「あっ、れ…?オレ、どうして…」 パチリ、と目を開いた山岡が、置かれた状況を把握できずにパチパチと瞬く。 「山岡先生っ。よかったぁ、目を覚まして」 「え…?」 「あの、頭痛いとか、気持ちが悪いとか、なんかありますか?」 ハッと山岡の目覚めに気がついて、全身を絶え間なく観察する原に、身体をベッドの上に起こした山岡の頭がコテンと傾いた。 「いぇ…どこも何も。あの、オレ…」 「そうっすか?あぁよかったぁ。医局でいきなり頭抱えて苦しみ出して、気を失うから、何事かと思ったんですよ~」 「え?オレ?失神してたの?」 キョトンと目を見開く山岡に、原がくしゃりと顔を歪めて、へらりと笑った。 「そうですよ~。もう本当、びっくりしたんですからね」 「あ、そっか。うん、なんかごめんね」 よく分からないまま、とりあえず迷惑を掛けたらしいと悟った山岡の謝罪に、原は「とんでもない」と手を振った。 「なんともないならよかったです!それより、おれ、日下部先生を呼んできますねっ?山岡先生目ぇ覚ましたって」 「え…?」 何で?と首を傾げる山岡は、咄嗟に駆け出そうとした原の手を、パシッと掴みとめていた。 「ほぇっ?ど、どうしたんですか?山岡先生」 「あ、いぇ、その…。あの、日下部先生って…」 ふらり、と視線を困惑に彷徨わせる山岡に、原がきゅっと眉を寄せて、元居た椅子に腰を戻した。 「山岡先生?もしかしてまた日下部先生のこと…」 「あ、いぇ、あの、日下部先生って方は、分かってます。分かっているんですけど…」 「え?じゃぁなに…」 「えっと、その、なんか、あの先生って…」 「はい」 「その、お、オレの、なに?かな?って…」 もそりと俯いてしまいながら、チラリと目だけを上に向けた山岡に、原が「うっ」と意味不明な呻き声を上げていた。 「あ~、えぇと、なに、と言いますと?」 「ん…。その、なんか、あの先生の態度とか、みなさんの様子や会話?から…その、あの先生って、オレと、実はかなり、親しかった…?のかな、と思って…」 う~ん、と少し言いづらそうに口をもごもごとさせて、サラリと落ちた前髪の間から上目遣いで見上げてくる山岡に、原が「はははは」と乾いた曖昧な笑みを浮かべていた。 「その…ただの、同僚…じゃ、なかった、んです、か?」 ちらり、と不安げに見上げてくる山岡は、馬鹿ではない。 日下部の端々から感じる言葉や雰囲気、周囲が2人を語る言葉から理論を組み立て、2人の元の関係をそれなりに推測するくらいには賢かった。 「っ、あ~、え~と?そ、それは、直接日下部先生に聞いてみたらいいんじゃないですかね!」 おれが言っていいものか分からない~、と情けなく眉を下げる原に、山岡の顔がへにゃりと歪む。 「聞いたら、教えてくれますかね」 「えっと、それはおれには分かりませんけど…」 ふにゃりと困ったように微笑む山岡は、だから、賢い。 原が言葉を濁す意味を、さらに推測の足しにして、ほぼ答えにたどり着いていた。 「っ、オレは…」 きゅぅ、と眉を寄せ、山岡が難しい顔をして見せたところに、コンコンというノックの音と、続いてがちゃりと当直室の扉が開く音が響いた。 「原先生、山岡先生の様子は…」 室内の返事を待たず、ズカズカと中に入ってきたのは、白衣姿の日下部で。 その後ろにおまけのようについてきた谷野が、日下部の後ろからひょいと顔を覗かせた。 「どや…って、なんや、目ぇ覚ましとるやないか」 「あ、あ~えっと、ついさっきです。今、日下部先生を呼びに行こうとしていたところで…」 お疲れ様ですっ、と慌てて椅子から立ち上がった原が、先輩医師2人にサッと場所を空けている。 「そう。気分はどうだ?山岡」 「え?あ、え~と、どこも、なんともありません…」 ちらり、と一瞬、2人を見上げた山岡だけれど、その目はすぐにストンと下に落ちてしまい、布団を見つめた山岡の顔は、バサリと落ちた前髪に隠れてしまった。 「そっか。でも念のため、ちょっと診させてな」 「え?あ、あの、はぃ…」 スッと聴診器をポケットから取り出した日下部に、またも一瞬だけパッと顔を持ち上げた山岡が、戸惑いながらもコクリと頷く。 その様子を油断なく見つめながら、日下部は山岡のワイシャツの裾を捲り上げて、ピタピタと聴診器を身体に当てていった。 「ん~。うん。問題なし。頭痛や吐き気は?」 「ありません」 「どこか不快なところは」 「それもありません」 「そう」 大丈夫そうだな、と微笑んだ日下部が、スッと耳から聴診器を外して首に掛ける。 「それで、じゃぁとりあえず…」 ちらり、と、山岡の髪の間から少しだけ見える双眸を覗き込んで、日下部がゆるりと首を小さく傾げる。 「仕事に戻るか?それとももう少し休んでいく?」 どちらでもいいけど、と告げる日下部の声に、ピクリと小さく山岡の肩が揺れ、僅かに怯んだその目に、日下部は気が付いた。

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