382 / 426
第382話
「はぁっ…」
スンッと軽く鼻を啜っての、日下部の吐息が落ち、ふわりと谷野の掛けたハンカチが取り去られる。
「悔やんでいても仕方ないよな」
「せ、やな」
キシッと音を立てて、椅子の背もたれに背中を預け切っていた日下部が、上半身をよいしょっと起こす。
「たかだか飛行機で十数時間の距離。それで離れてしまうと恐れられる程度にしか、俺たちの想いに繋がりはなかったと思わせていたのかと思うと、山岡を責めたくて責めたくて仕方がないけど」
「まぁなぁ」
「その山岡に、この先救う命のための技術と知識を高める機会と釣り合うほどに、想われていたことに気づけていなかった俺も、悪い」
「せやな」
バッサリと同意する悪友従兄弟様に、ジロッと恨めしい視線を送ってから、日下部は反動をつけて、椅子からひょいと立ち上がった。
「まぁ結果、山岡の俺の記憶が失われてしまったことは、揺るぎようのない事実だしな」
「っ、せや、な」
「さて、ここからどうするか、だ」
ひらり、と白衣の裾を翻し、日下部が医局の出口に足を向ける。
「ちぃ?」
「今さら、海外留学に関して話し合おうと言ったって、もう遅い」
「せやなぁ」
「互いの未来を描こうにも、山岡の記憶の中に、もう俺はいない」
「ん、ならどうするん」
かちゃん、と医局のドアに手を掛ける、日下部の白衣がひらりと翻った。
「刻み込み直す」
「ふ、ぇっ?」
「あいつの中にある光は、やっぱり俺であって欲しいから」
「っ、そ、か」
「あいつと共に歩くのは、やっぱり俺でありたいから。もう1度、今度はもっと慎重に、あいつとの明るい未来を描き直す」
にっ、と笑って、谷野に向かって胸を張る。
なるほど、やっぱりちぃ様だ。
「せやな。それでこそちぃや」
「ん。そうと覚悟を決めたら、行くぞ、仮眠室」
「あぁ」
「原も待っているだろうしな」
いい加減、解放してやらないと、と笑う日下部が、ふわりとドアに向き直って、その向こうへと出て行った。
*
その頃。
仮眠室内では、山岡がゆるりと目を覚ましていた。
「あっ、れ…?オレ、どうして…」
パチリ、と目を開いた山岡が、置かれた状況を把握できずにパチパチと瞬く。
「山岡先生っ。よかったぁ、目を覚まして」
「え…?」
「あの、頭痛いとか、気持ちが悪いとか、なんかありますか?」
ハッと山岡の目覚めに気がついて、全身を絶え間なく観察する原に、身体をベッドの上に起こした山岡の頭がコテンと傾いた。
「いぇ…どこも何も。あの、オレ…」
「そうっすか?あぁよかったぁ。医局でいきなり頭抱えて苦しみ出して、気を失うから、何事かと思ったんですよ~」
「え?オレ?失神してたの?」
キョトンと目を見開く山岡に、原がくしゃりと顔を歪めて、へらりと笑った。
「そうですよ~。もう本当、びっくりしたんですからね」
「あ、そっか。うん、なんかごめんね」
よく分からないまま、とりあえず迷惑を掛けたらしいと悟った山岡の謝罪に、原は「とんでもない」と手を振った。
「なんともないならよかったです!それより、おれ、日下部先生を呼んできますねっ?山岡先生目ぇ覚ましたって」
「え…?」
何で?と首を傾げる山岡は、咄嗟に駆け出そうとした原の手を、パシッと掴みとめていた。
「ほぇっ?ど、どうしたんですか?山岡先生」
「あ、いぇ、その…。あの、日下部先生って…」
ふらり、と視線を困惑に彷徨わせる山岡に、原がきゅっと眉を寄せて、元居た椅子に腰を戻した。
「山岡先生?もしかしてまた日下部先生のこと…」
「あ、いぇ、あの、日下部先生って方は、分かってます。分かっているんですけど…」
「え?じゃぁなに…」
「えっと、その、なんか、あの先生って…」
「はい」
「その、お、オレの、なに?かな?って…」
もそりと俯いてしまいながら、チラリと目だけを上に向けた山岡に、原が「うっ」と意味不明な呻き声を上げていた。
「あ~、えぇと、なに、と言いますと?」
「ん…。その、なんか、あの先生の態度とか、みなさんの様子や会話?から…その、あの先生って、オレと、実はかなり、親しかった…?のかな、と思って…」
う~ん、と少し言いづらそうに口をもごもごとさせて、サラリと落ちた前髪の間から上目遣いで見上げてくる山岡に、原が「はははは」と乾いた曖昧な笑みを浮かべていた。
「その…ただの、同僚…じゃ、なかった、んです、か?」
ちらり、と不安げに見上げてくる山岡は、馬鹿ではない。
日下部の端々から感じる言葉や雰囲気、周囲が2人を語る言葉から理論を組み立て、2人の元の関係をそれなりに推測するくらいには賢かった。
「っ、あ~、え~と?そ、それは、直接日下部先生に聞いてみたらいいんじゃないですかね!」
おれが言っていいものか分からない~、と情けなく眉を下げる原に、山岡の顔がへにゃりと歪む。
「聞いたら、教えてくれますかね」
「えっと、それはおれには分かりませんけど…」
ふにゃりと困ったように微笑む山岡は、だから、賢い。
原が言葉を濁す意味を、さらに推測の足しにして、ほぼ答えにたどり着いていた。
「っ、オレは…」
きゅぅ、と眉を寄せ、山岡が難しい顔をして見せたところに、コンコンというノックの音と、続いてがちゃりと当直室の扉が開く音が響いた。
「原先生、山岡先生の様子は…」
室内の返事を待たず、ズカズカと中に入ってきたのは、白衣姿の日下部で。
その後ろにおまけのようについてきた谷野が、日下部の後ろからひょいと顔を覗かせた。
「どや…って、なんや、目ぇ覚ましとるやないか」
「あ、あ~えっと、ついさっきです。今、日下部先生を呼びに行こうとしていたところで…」
お疲れ様ですっ、と慌てて椅子から立ち上がった原が、先輩医師2人にサッと場所を空けている。
「そう。気分はどうだ?山岡」
「え?あ、え~と、どこも、なんともありません…」
ちらり、と一瞬、2人を見上げた山岡だけれど、その目はすぐにストンと下に落ちてしまい、布団を見つめた山岡の顔は、バサリと落ちた前髪に隠れてしまった。
「そっか。でも念のため、ちょっと診させてな」
「え?あ、あの、はぃ…」
スッと聴診器をポケットから取り出した日下部に、またも一瞬だけパッと顔を持ち上げた山岡が、戸惑いながらもコクリと頷く。
その様子を油断なく見つめながら、日下部は山岡のワイシャツの裾を捲り上げて、ピタピタと聴診器を身体に当てていった。
「ん~。うん。問題なし。頭痛や吐き気は?」
「ありません」
「どこか不快なところは」
「それもありません」
「そう」
大丈夫そうだな、と微笑んだ日下部が、スッと耳から聴診器を外して首に掛ける。
「それで、じゃぁとりあえず…」
ちらり、と、山岡の髪の間から少しだけ見える双眸を覗き込んで、日下部がゆるりと首を小さく傾げる。
「仕事に戻るか?それとももう少し休んでいく?」
どちらでもいいけど、と告げる日下部の声に、ピクリと小さく山岡の肩が揺れ、僅かに怯んだその目に、日下部は気が付いた。
ともだちにシェアしよう!