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第383話

「っ、山岡先生?」 その怯えが何を示すのかまでは分からなくて、日下部の声が慎重さを増す。 その姿にまたもぐずぐずと深く俯いてしまった山岡が、くしゃりと足の上の布団を握り締めて、ぽつりと告げた。 「あの…オレ、仕事をしても、本当に大丈夫だと思いますか?」 「え…?山岡先生?」 「その…だって、突然気を失うなんて、やっぱり普通じゃないですよ…ね」 これがもしオペ中だったら?処置の最中だったら?と怯えて見せる山岡は、患者の命を最優先に見つめる、医者だ。 「山岡先生…」 「っ、あなたは…日下部先生は、オレについて、フォローするからって言って下さいましたけど…」 「うん」 「そもそも、四六時中オレについているのは無理がありますし、やっぱりどう考えても迷惑でしかないです」 「山岡」 「オレも!オレも…いつ何が起きるか分からないオレを、もう信用できません」 記憶が抜けているだけじゃない。何が切っ掛けかもわからずに、突然意識を失うような医者。 もし自分が患者だったら、こんな医者に診てもらいたくないと思う。 「山岡…」 「オレは…あなたに迷惑を掛けてまで…さらに記憶も曖昧でコンディションも怪しいこの身体で、仕事を続ける意味は…ないんじゃ、ないかな…って。それは、オレのただの我儘で…だから」 「山岡」 「っ、ごめんなさい。どちらにしても、オレが仕事から抜ければ、他の先生方の負担が増えてしまうのは、分かっているんです、だけど」 「はぁっ…」 きゅぅ、と布団を握り締めて俯いた山岡の頭上に、日下部の重い溜息が降り注いだ。 「っ…」 途端にビクッと怯えて肩を揺らす山岡に、日下部はそっと1歩近づいた。 「山岡」 「っ、あ、の、オレ…」 「山岡、顔を上げろ」 ドカッと山岡の傍らに置かれた椅子に腰を落とした日下部が、鋭く強い口調で、びしりと命じた。 「っ、っ…」 びくり、と怯えた仕草を見せて、それでもオズオズと顔を持ち上げる山岡に、日下部は、ふわりと優しく微笑んだ。 「っ、え…?」 「クスクス、本当、昔のおまえを見ているみたいだ」 「く、さかべ、せんせい…?」 「大丈夫」 「え?」 「大丈夫だよ、山岡。俺は、おまえのフォローに入ることを、1つも迷惑だなんて思っちゃいない」 「っ、だけど、でも…」 「他の先生たちもな、もしおまえが仕事を抜けたいと言ったところで、それを迷惑だなんて思いはしないから」 だから大丈夫だ、と笑って、ポンと頭を撫でる日下部に、山岡はぐすぐすと俯いてしまった。 「だ、けど、オレは…」 「うん。好きに、決めていいよ」 「っ、だけど…っ」 「うん。仕事を続けていたいと思うんなら、俺は全力でフォローに回るし。どうしても不安で仕事と距離を置きたいって思うんなら、おまえの抜けた穴は、みんなで全力で埋めるから」 「っ…」 「だから、おまえはおまえが思う通りに、遠慮なく振る舞っていいんだ」 全部受け止める、と請け合う日下部に、俯いていた山岡の顔が、おずおずと持ち上がった。 「ど、して、ですか…?」 「ん?」 「あなたはどうしてそんなに、オレに親切にしてくれるんですか?」 「ん~?そんなの…」 「おかしいです。だってオレは、あなたに迷惑を掛けることしかできない。負担になって、邪魔をすることしか…っ」 きゅっと歯を食いしばって、ギリギリと日下部を睨みつける山岡の目は、困惑と苛立ちに揺れていた。 「っ、山岡っ」 「恨むでしょう?普通。だってその上オレは、あなたのことを忘れてしまっているんですよ?」 「っ、そんなもの…」 「怒るでしょう?あなたの…みんなの無駄な仕事を増やして。さらにこれから、やっぱり仕事に穴を開けさせてくださいなんて。厄介ですよね。迷惑に決まってます。オレは、疫病神だ…」 だからそう罵って。優しくしないで。と悲痛に叫ぶ山岡を、日下部は乱暴に掻き抱くように腕の中に閉じ込めた。 「っ、なんでおまえは…っ」 「っ、やっ。やだっ、やめ…っ」 「なんでそうして、1人で背負い込もうとする…っ。独りぼっちになろうとするんだっ…」 馬鹿、と囁きながら、ぎゅぅ、と抱き締めた山岡の身体に、日下部の震えが伝わる。 「だって、オレには…っ」 「山岡!」 「だってオレには…っ、価値がない…っ」 誰かに優しくしてもらえるような。誰かの時間や心を掛けてもらうような。 この手は周囲から何もかもを奪い去ることしかできなくて、持っているものも返せるものも何もないと、身を切る様に悲痛に叫ぶ山岡に、日下部の口がぎゅっと白くなるほどに噛み締められた。 「おまえには…っ」 ぎゅっ、と引き寄せた山岡の身体に、ぐいと顔を寄せ、日下部は強引に、その唇を奪い去る。 もう黙れと。おまえにはおまえの知らない価値があると。 必死で思い知らせるように、教えるように、日下部はただ強く山岡にキスを与えた。 「っ…」 嫌だ、とむずかるように頭を揺らす山岡に、日下部は無理やりキスを与え続ける。 ドンドンと日下部の背中を叩いていた山岡の手が、やがてスルリと力を失くし、クタリと滑り落ちていくまで、日下部の口づけは続いた。 「ぷはっ…」 ツゥーと、互いの唇の間に、唾液の糸が引き、顔を真っ赤にした山岡が、ゼィゼィと荒い息をついている。 その目が、みるみるうちにキッと吊り上がっていき、呼吸を求めてパクパクと喘ぐ唇が、さらに深く震えを増した。 「なっ、なっ、なっ…」 はくはくと喘ぐ唇が、何かの言葉を形作る。 けれどもそれは明確な意味をなさず、ただただ「な」の音を繰り返すのみ。 「山岡」 落ち着け、と伸ばされた日下部の手は、バシッと山岡の手に振り払われ、真っ赤に充血した山岡の目に、日下部はギリギリと睨まれた。 「っ…山岡」 「なっ、な、何するんですかっ!キ、キ、キス、とかっ、い、いきなりっ…」 ふざけるな!と言わんばかりに叫ぶ山岡に、日下部の顔がへにゃりと歪む。 「こんなっ、こんなこと…っ」 「あは、まぁなんだ、その、思わず、な?」 「っーー!」 カァァッと顔を赤くした山岡の手が、ガシッと枕を掴み上げ、それを日下部に向かってぶん投げた。 「うぷっ…」 ばふっ、と枕の直撃を顔面に食らった日下部が、くぐもった呻き声を上げている。 その一部始終をうっかり見る羽目になってしまった谷野と原が、2人そろって「あちゃぁ」と頭を抱えていた。

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