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第384話

そうして、すっかりおかんむりの山岡に、無理やり当直室を追い出されてしまった日下部は、同じく廊下に追いやられてしまった谷野と原のジトッとした呆れ目に晒されて、へらりと誤魔化し笑いを浮かべていた。 「ったく、ちぃ様にもホンマ、困ったもんや」 「だって、あれは山岡が」 「あ~ぁ、本当です。おれの元オーベンは、まったく。山岡先生が、記憶喪失だってこと、ケロッと忘れてません?」 あんな強引なことをするなんて、と呟く原に、日下部のギロッとした目が向いた。 「言うようになったな、研修医」 「っは、そりゃ…っさすがにあんなの見せられたら、苦情くらい言いたくなりますって!」 壮絶な日下部の視線を受けて、原がサッと青褪めながらも、ワタワタと反論は忘れない。 「はぁっ…。だってな、山岡が、あまりにもあれだから…」 「まぁ分からんでもないけど、それが山岡センセの解離性障害っちゅー病気なんやから」 「分かってはいるけど」 悔しくて、と漏らす日下部は、山岡が見せていたかつての屈託のない笑顔を覚えている。 「はぁ。ホンマ、試練のお人やな~」 「そうですね」 「なんべんもなんべんも…なしてああ辛い思いばかりせなあかんねん、あの人は。ほんま、何度目や、おれのこの台詞も」 敵わんわ、と呟く谷野は、その試練を毎度一緒に背負わされる日下部に、同情的な視線を向けた。 「なぁちぃ様?」 「っ、嫌味か。どうせ、俺は好き好んで巻き込まれに行ってるよ」 「せやったな。なにせちぃは、神さんと、山岡センセを取り合って、喧嘩吹っ掛けとんのやもんな?」 「ふん」 「せやけど…あれはアカンかったで。ものごっつ警戒心を煽りよった」 いきなりキスて、と呆れ果てる谷野に、日下部も自分の行動がどれだけ浅はかだったかは分かっていて、ふらりと視線を彷徨わせた。 「ただでさえ頑なな鎧を纏っとる山岡センセやで?ちぃはさっきので、完璧に山岡センセに警戒されたな」 どうするん、と笑う谷野に、ジトッとした日下部の目が向いた。 「どうするも何も、やらかしたのは俺が一番よく分かってるよ」 「せやね」 「俺のことを恋人と認識していない山岡に…。やらかしたよなぁ。あれじゃぁ立派にセクハラだ」 「くくっ、ちぃ様がセクハラやて」 笑えるわ、と言いながら本当に笑う谷野を、原が隣で慌てて押さえようとしていた。 「ちょっ、とら先生っ…」 「ふん。だけど、山岡は馬鹿じゃないんだ。隠したり誤魔化したりしたところで、多分俺との関係なんて、すぐに察してしまうだろう」 「あ、それ…」 「ん?原?」 「あ~、その、さっき目を覚ました時に…。山岡先生と日下部先生の関係…ただの同僚じゃなかったんですか?みたいなことを、聞かれました」 「っ…」 ピクッと肩を揺らした日下部に、谷野がちらりと視線を向けた後、原の方に目を移した。 「それで、原センセはなんて答えたん?」 「あ~、それは、おれの口から勝手に言っていいのか分からなかったんで。日下部先生に直接聞いたらどうですか、って言っておきましたけど…」 「なるほどな」 賢明やん、と笑って見せる谷野が、いい弟子育ててんな、と日下部をつつく。 「健忘って、無理に記憶を戻させようとしたり、強引な情報の与え方をして患者を混乱させたり、してはいけない、ではなかったでしたっけ?あ、おれまだ、精神科領域は全然勉強不足でなんとなくなんですけど…」 ただそんなようなことを机上では習ったような?と首を傾げる原に、日下部のジト目が向いた。 「それは俺への説教か?」 「へっ?」 「ぷぷ、ナイスやで、原センセ」 「え?…あ」 日下部と谷野の反応に、キョトンとした原の目が、何かを察してギクリと揺れた。 「ん~?俺が、その健忘患者の山岡に、強引に元の関係性を示唆するような真似を仕出かしやがった、って?」 「う、あ、いや、だからそれはですね…」 「脳外の先生にも、無理やり記憶の扉をこじ開けるようなことや、不用意に患者を刺激するような真似をするなって注意されていたにも関わらず?」 「だからっ、その…」 「ふん。やってしまったものはもう仕方がないだろう?」 「うわ、出た、ちぃ様や」 開き直りよった、と笑う谷野に、原が困ったように視線を彷徨わせて苦笑した。 「そうですね」 「仕方がない。ミスをしたのは俺だ。だから、その結果で起こり得ることの責任はちゃんと…」 と、そこまで日下部が話したところで、キィと当直室のドアが開き、そろそろと山岡が顔を覗かせた。 「っ、あ、の…」 ぽそり、と掛けられる山岡の声は小さい。 小さいけれど、廊下にいた日下部たちは、その声をきちんと拾い上げていた。 「あ、山岡?」 「っ、あ、の、オレ…」 そろりと、長い前髪の間から、目だけをチラリと上にあげ、山岡が顔の半分だけをドアの隙間から覗かせる。 「っ…」 その、あまりにもビクついた態度の山岡の様子に、ジロリと3つの視線が集まって、山岡はますます怯えたようにひゅっと当直室のドアの中に引っ込んでしまった。 「っ、あ、おいっ、山岡っ」 「ふはっ、なんや、そこまで怯えてんのかいな」 「ちょ、可愛いことしないでください、山岡先生」 パタン、と閉まりかけるドアをすんでのところで押さえて、日下部、谷野、原がそれぞれの言葉を漏らす。 「っ…や、離し…っ」 「こら。もう、何もしないから。出て来い、山岡っ」 ドアを内側から閉めたがる山岡と、そうはさせまいとドアを押さえる日下部の攻防が続く。 「やっ、あの、オレは…っ」 「っ、つ…」 ぐい、と渾身の力を込めてドアを引っ張った山岡と、思わずそれにつられた日下部の手が、ツンと触れた瞬間。 「うわぁっ!」 「げ…」 咄嗟にパッとドアを離してしまった山岡の手のせいで、勢いがついていた日下部は、思わず転びそうになってしまった。 「っととと、ちょっ、急になに…」 「ひゃぁ」と変な声を上げて、自分の手を胸元に抱えている山岡に、日下部の苦笑が向く。 そのやり取りを見ていた谷野と原が、もうやっていられないといった様子で、2人してケッと天井を仰いでいた。 「う、あ、あのっ、その、オ、オレっ…」 「うん。まぁ、なんだ。落ち着こうか?」 ワタワタ、モジモジと焦りまくる山岡を宥めながら、日下部がようやく開いた当直室のドアを完全に押し開ける。 「っ、あの、オレ…」 きゅぅ、と胸元に抱えた両手を握り締めて、オドオドと上目遣いを覗かせる山岡に、日下部がふわりと微笑んだ。 「うん」 にこりと綻ぶその顔に、山岡が一瞬目を瞠る。 それからソロソロと足元に落ちて行ってしまった山岡の視線につられて、パサリと髪がその表情を覆い隠した。 「オレ…あなたと、オレは」 ぽそり、と自信なさげに紡がれる山岡の声に、日下部は静かに頭を上下させた。 「うん」 慈しむように、穏やかに。山岡を見つめる日下部の目に、山岡の眉がくしゃりと寄った。 その様子を見下ろして、日下部はふんわりと淡く囁いた。 「うん。俺たちは、恋人同士」 「っ…」 「俺と山岡は、付き合っていたんだ」 ぽつりと、だけどはっきりと。その関係性を口にした日下部に、山岡の目がくるりと丸くなり、そしてへにゃりと俯いた。 「オレ…」 「うん。覚えてないよな」 「ご、めんなさい…」 ふるりと首を振る山岡に、日下部は穏やかな表情のまま、ポンと軽く山岡の頭に手を乗せた。 「大丈夫だよ。責めてない」 くしゃりと山岡の髪を掻き混ぜながら、柔らかく微笑む日下部に、山岡の目が視線だけちろりと上を向く。 その目が、ふと頭に乗った日下部の手を見て、大きく見開かれていった。 「っ、え…?」 「ん?」 「あれ…?これ」 ひょい、と持ち上がった山岡の手が、頭に乗った日下部の手をぐいっと掴む。 その手首に覗く腕時計に、まじまじとした視線が向いた。 「なに?…あぁ、この時計?」 「っ、これ、オレのと、似て…」 何故か白衣のポケットに入っていたんです、と言いながら、もう片方の手でそれを取り出す山岡に、日下部のテンションが上がる。 「ふふ、気づいた?これ、ペアなんだ」 「っ…それって」 「うん。俺がおまえにプレゼントして、お揃いでつけてたの」 カップルだからね、と笑う日下部に、山岡の目はふにゃりと困惑に揺れた。 「オレ…」 「うん。そんな顔しなくていい」 「っ、だけどオレ…」 「うん。分かってる」 「オレ…っ、やっぱり…。ごめんなさい」 どうしても思い出せない、と落ち込む山岡に、日下部はただただ穏やかに首を振った。 「大丈夫」 「だけどでも…」 「うん。そりゃ、寂しくないって言ったら、嘘だけど。今のおまえに無理やり納得させようとしたって、しょうがないだろ?」 「ごめんなさい」 「うん。俺も、さっきは強引な真似をしてごめんな」 「え…?」 くるりん、と目を丸くして、きょとんと首を傾げた山岡に、日下部の苦笑が向く。 「ははっ。キス」 「っ!」 「俺のことを何も覚えていないおまえに、酷いことをしたと思う」 ごめん、と頭を下げる日下部に、山岡は慌ててブンブンと首を振った。 「だけどただ、俺たち、実は同棲してるんだよね」 「へっ?」と目を見開いた山岡が、そのままぴたりと固まった。 「一緒に暮らしてるの。だから…そこをもう誤魔化しても、仕方ないと思ったから言ったんだけどね」 恋人だってこと。そう呟く日下部に、山岡は衝撃を受け止めた顔のまま、ぴっしりと固まっていた。 「うん。大混乱は承知の上なんだけど、だけどただ…」 「く、さかべ、先生…?」 「うん、だけど俺は、もうおまえが怖がることとか嫌がることはしないって誓うから」 「っ…」 例えばさっきみたいなキスとかね?とウインクをしてみせる日下部に、山岡の顔は強張りつつもどうにかふにゃりと動き出した。 「同居は…。おまえのアパート、もうとっくに引き払っちゃってるし、そこは、さ」 「っ、日下部先生…」 「うん。おまえが俺をただの同僚だと思ってて、そう振る舞ってくれるのも、全然構わないから、だから」 「っ、でも、それ…」 「うん。ただの同居人でいいから。それでいいから、一緒に住むことだけは、ちょっとだけ我慢してくれないかな。出てくなんて、言わないで、欲しいと思うんだけど…」 駄目?と窺うように見つめてくる日下部に、山岡は冷徹な決断をすることなど出来るはずもなかった。 「でもご迷惑じゃ…」 「ない!それは断じてない。むしろ出て行かれる方が迷惑」 「はぃ?あ、家賃の問題とか…」 「は?おまえ、俺を一体誰だと?」 「え?あ、そうですよね。外科医ですもんね。お金なんていっぱい…」 「ハイ、稼がせてもらってマス」 ルームシェア代が理由じゃないから!とピンッとおでこを弾いてくる日下部に、山岡がへにゃりと眉を下げた。 「だけど、オレなんかと同居…」 「出た、オレなんか。それ、禁句な?」 「え…?」 「おまえは、俺にとって、山岡なんかじゃないんだから。山岡だからなんだから」 「あ、の、えっと…」 「オレ『なんか』を言ったら、お仕置きな」 「は?え?ちょっ、おしおきって…」 何なんですか、と日下部を睨みながらも、怯えた目をする山岡に、ゾクゾクと悦ぶ日下部は、どSだ。 「ふふ、おまえは、俺には何にも代えがたい、大切な人間なんだ。それを貶めるやつは、たとえ本人でも許さない」 「は?え?でも…オレの方は、あなたのことを覚えてなくて…。そんなオレなんかと一緒に暮らすのは、日下部先生にとって…」 もそりと呟く山岡に、日下部の目が、にっこりと楽しげに弧を描いた。 「言ったな?『オレなんか』」 「え…?」 あ!と口を両手で押さえて、目を泳がせる山岡に、日下部の口元までもがにぃっと緩やかに弧を描く。 「さっそくお仕置きが必要か」 Mだねぇ、と笑う日下部に、山岡がブンブンと首を振りながら、怯えたように後退った。 「その禁句発言のお仕置き、どうされていたか覚えてる?」 「っ…」 覚えてない!と首を振る山岡に、日下部の顔がズイと近づく。 『ふふ、痛いやつ』 こっそりと耳元に唇を寄せて、息を吹き込むように囁いた日下部に、ビクッと山岡の肩が揺れた。 「く、さかべ、せんせ…?」 そろり、と涙をたっぷり浮かべた目で日下部を窺う山岡に、日下部の顔がゾクゾクとした喜びに意地悪く歪んでいくのが見えた。 『お尻。た~っぷりぶって、泣かして、謝らせて、もう2度と言いません、って誓わせるまで、真っ赤にすることろなんだけど』 「っ~~!そんなこと…っ」 されてたまるかと、お尻を両手で庇って後退っていく山岡の目は、すでに涙がいっぱいだ。 「さて…」 「っ!だ、だって日下部先生、さっき、オレの嫌がることはしないって誓うって…」 「え~?それとこれとは別でしょ。だって、同僚としてだってするもん。ちなみに、付き合う前にしたことだよ?これ」 「はぁぁぁっ?」 (え?じゃぁオレ、こんなどSで意地悪な人と付き合うことにしたってこと…?) 「え、なんで…?」 「ぶふっ、その反応、さすがに傷つくかも」 語るねぇ、と山岡の目を見ながら笑う日下部に、山岡がハッとして顔を上げた。 「あ、や、その、ごめんなさい…」 この人にとって自分は、付き合ってる恋人だった、と思い、シュンと俯く山岡に、日下部の目が鮮やかに弧を描いた。 「まぁ、それでいいって言ったのは俺だしね。ショックだけど。寂しいけど」 「あ、う、その、オレ…」 「うん。同僚だもんな。付き合った意味、わからないもんな。うん、しょうがない」 「っ、あの、だけどオレ…っ」 「うん」 「あの…その、ごめんなさい…」 ぐずぐずと俯く山岡に、日下部の目がキラリと光った。 「悪いと思ってるの?」 「えっと、その、はぃ…」 「じゃぁ同居の解消はナシ、ってことに同意して」 「はぃ?え、あの…」 「なんならさっき言ってたお仕置きも、チャラにしてあげるから」 おまえにとっては初犯だしな、と笑う日下部に、山岡の目がふらりと揺れる。 「あ、の…」 「うん。同居。続けるって方向で」 「あの、えっと、う、は、はぃ…」 コクリ、と思わず頷いてしまった山岡の負けだった。 「っし。同意したからな?もちろん、ただの『同居』っていう約束はちゃんと守るから」 「はぃ…」 ふにゃりと頭を上下させる山岡に、日下部は満足そうに微笑んだ。 うっかりその一連のやり取りを、ず~っと眺めてしまっていた原と谷野が、「やってられない」「だからちぃはまた強引に!」と疲れて呆れてその場を放棄して去っていく姿が、ちらりと廊下の端のガラス窓に映っていた。

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