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第385話

それから結局、急患だと呼ばれて行ってしまった日下部を見送り、山岡は1人、部長室の光村のところへやってきていた。 「っ…そう、突然意識を…」 「はぃ…」 もそりと俯く山岡を、執務机越しに見ていた光村は、ふむ、と1つ、難しい顔をして頷いた。 「それで、やっぱり仕事からは距離を置きたい、と?」 「すみません。だけど、オレは、やっぱりどこか…」 まともじゃない、と震えた声を漏らす山岡に、光村は優しく目を細めた。 「うん。そうだね。責任感の強いきみなら、そう言い出すだろうことだね」 「本当に、他の先生方に負担を掛けてしまうことになって申し訳ないんですけど…」 「うん。こちらとしても、きみほどの医師に抜けられてしまうのは、相当な痛手だよ」 「っ…」 「すみません」と深く俯いて謝るばかりの山岡に、光村は、優しく温かい目を向け続けた。 「うん。でも体調不良は誰にでも起こり得ることだからね、責めるつもりはないけれど」 「光村先生…?」 「だけど、ならば、こういうのはどうかな?とりあえず、病棟回診や診察とか、書類仕事や検査室回りならさ、まぁあっても困るけど、もし何かがあってもさ、直接的な実害は、出ないわけだ」 「っ、それは…」 「重要な処置やオペは、きみが言う不安を余計に掻き立ててしまうから、外れてもらって、他の医師たちに任せよう。だけど、それ以外の、今言ったような仕事なら、日下部くんのフォローがあれば、やれるんじゃないかな?」 どうだろう?と首を傾げる光村に、山岡の目がそろりと持ち上がった。 「っ、だけど…」 「ふふ、幸い日下部くんは、きみについて手助けする気満々だと思うんだけど」 「っ、それは…っ」 ビクリ、と目の端を震わせて、思わず声を荒げた山岡に、光村は好々爺然としてニコリと笑った。 「彼を、頼ることは気が引ける?」 「っ、正直…はぃ」 「うん。だけど彼は、きみの側に居たがるだろう?」 「う、それも、はぃ…」 こくりと頷く山岡に、光村は薄っすらと目を細めて、とても柔らかく微笑んだ。 「彼もきみもね、私のとても大切な部下なんだ」 「っ…そ、れは」 「うん。だから、きみの思いや主張も分かるし、それと同じくらい日下部くんの主張や思いも私はよくわかる」 「み、つむら、先生…」 ぽつり、と名を呼ぶ山岡に、光村はどこまでも優しく微笑んだ。 「うん。だから…まぁ私も、日下部くんを山岡くんの側に置くことが、吉と出るか凶と出るかは分からないんだけどね」 「っ…」 「きみたち2人の絆は、よく知っている方だと思うんだよね」 「っ、ん…」 「だから…1度はきみの心を切り拓いた日下部くんだから」 「っ…!」 「もう1度…と賭けてしまう気持ちを、少しだけ汲んでくれないかな?」 「っ…」 ふわりと微笑む光村に、くしゃりと俯いてしまった山岡の顔が、バサリと髪で隠された。 「山岡くん?」 「でも…」 「うん。どうしても嫌?」 「っ、その、嫌、っていうか…あの。日下部先生、は、消化器外科のエースで…とてもすごい、外科医だって…」 そんな人の時間を自分が奪ってしまうことが申し訳ない、と訴える山岡に、光村は面白そうに目を細めた。 「なるほど?確かに日下部くんは外科医で、切った縫ったで傷や病を癒すのは得意だね」 「ぇ?あの、光村先生…?」 「ふふ、それに対して、心や気持ちっていう、目に見えないものを、切り拓いて治してくる、っていうのは、正直どんなに腕のいい外科医でも、すっごく難しいことだよね」 「あの…光村先生」 「クスクス、だけど、日下部くんだから」 「え…?あの…」 「相手が山岡くんで、日下部くんだから」 「み、つむら、先生…?」 何を言い出して…と困惑に目を彷徨わせる山岡に、光村のとても悪戯っぽい視線が向いた。 「その、『とてもすごい外科医で、エースの』日下部くんなんだろう?」 「ぇ?あの…」 「クスクス、だから、きみの…山岡くんの心を、切り拓いて癒して元通りにする、ことが、彼だけに、出来るかもしれない」 「はぃ?あの…」 本気で何を言っているんだ、と言わんばかりにキョロキョロとする山岡に、光村はにっこり微笑んだ。 「彼だけにしか、出来ない」 「っ……」 きっぱりと、1つも揺らがぬ声で言った光村に、山岡がひゅっと息を飲んで固まった。 「ふふ、今回だけ、私の賭けに、乗っかってくれないかい?」 光村の言葉に目をぱちくりとさせた山岡が、ズルズルと俯いて、もそりと呟いた。 「でも…あの人、その、オレと…」 「あぁ、聞いたのか。恋人関係にあったと」 「っ~~!知って…?」 「まぁなんだ。きみたちの関係は、病棟の飲み会で盛大にカミングアウトされているからな」 「え…?そんな」 「堂々と宣言済みだ。ちなみにうちのスタッフはみんな、それを快く受け入れておる」 「っ…じゃぁ」 ふらり、と揺れる山岡の視線の意味を、光村は正確に理解していた。 「あぁ。私は、きみたちの関係性を分かった上で、この提案をしている」 「っ、それじゃぁ、だって、これは日下部先生にとってあまりにも…」 「キツい?苦しい?分かっている。それでも、私は日下部くんの気持ちを分かったうえで言っているんだよ」 「そんなっ。だってそれじゃぁもしもオレが…っ」 「っ、分かっている。山岡くんが、何を懸念しているのかも、分かっていて…っ。それでも私は、可能性に賭けたいんだ」 「み、つむら、先生…」 「日下部くんだけが、きみの……」 きゅぅ、と口を結んでしまった光村の、その言葉の先は、もう音になることはなかった。 ただ、そのあまりに苦しげな表情に、山岡は黙って頷くしかないと感じていた。 「っ…。分かり、ました。オレは…病棟回診とか、そういう、出来そうな仕事だけ…。日下部先生を頼らせていただいて…続け、ます…」 「うん。ありがとう」 「っ、だけどオレは…」 「うん。きみはきみの気持ちに嘘をつく必要はないし、何か無理をする必要もないから」 「っ…」 「うん。そうと決まったら、病棟カンファをして、きみのオペや担当患者を他の先生に振り分けようね」 預けたい患者とオペのスケジュールを出しておいて、という光村に、山岡はへにゃりとした情けない顔のまま、黙って深く頭を下げた。

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