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第386話
その日の帰り。山岡は、無事カンファで自分に出来そうにないと思う仕事を、他の医師たちに預けることができ、少しだけホッとしながら、職員出入口をくぐっていた。
隣には同じく定時で上がった日下部が、ぴったりついてきている。
「あ、の…」
「うん。病院への行き来は、時間が重なるときはいつも俺の車で、一緒に出退勤していたんだ」
「そう、ですか…」
ぽつりと俯く山岡が、ジッと自分の足先を見つめている。
「不快?」
「え?いぇっ、そんなこと」
有難いとは思えど、不快だなんてそんなこと。慌てて顔を上げた山岡に、日下部がにっこりと綺麗に微笑んだ。
「じゃぁ行こうか。俺の車はあっち。あの車なんだけど、覚えてね」
ちょっと目立つよね、と笑う日下部が示した車は、なるほど、他の医師たちの車が並ぶ中でもなかなかに高級の部類に入る、有名外車だ。
「似合いますね」
「ふふ、そう?まぁ結構お気に入りだけどね」
どうぞ、と笑いながら、日下部が車の前までたどり着いた山岡を、助手席のドアを開けてエスコートしている。
「あ、ありがとうございます」
オドオドと遠慮がちに、戸惑いながらも助手席に収まった山岡に、日下部が嬉しそうにふふふ、と笑みを浮かべた。
「さてと。今日の夕食は何にしようか」
「え…?」
するりと自分は運転席に滑り込んできた日下部が、エンジンをスタートさせて何気なく聞いてくる。
キョトン、と目を見開いた山岡が、くるりと隣の日下部を振り返った。
「ん?なに?」
「あ、いぇ…。その、食事って…」
「あぁ、うん。一緒に摂れるときは、俺が作っていたけど」
「っ、そう、なんですね…」
驚いたように息を詰める山岡に、日下部は可笑しそうにクスクスと笑い声を立てた。
「おまえは一切炊事をしないもんな?」
「あ、知って…?」
「ふふ、朝も昼も放っておけば栄養ドリンクや栄養補助食品で済ませてる。よくてパン」
「っ…」
「夜も、俺と出会う前は、コンビニ弁当やデリ、カップラーメンだったって聞いてるよ」
「あ、ぅ…」
ぐ、と言葉に詰まる山岡は、記憶のない今、現在進行形でその食生活のつもりでいる。
「クスクス、医者の不養生。そんなん続けてたら、いつか身体を壊すよ?って俺に散々叱られてね」
「う…」
「当直や残業とか、一緒に摂れない日は仕方ないにしても、一緒に居られるときは、俺がおまえの食事を完全に管理してたんだ」
「そうですか…なんか、申し訳ないです、ね」
そんな世話を…と俯く山岡に、日下部はますます面白そうにクスクスと笑った。
「別に好きでやってるからいいんだけど」
「料理ですか?」
「まぁね。嫌いじゃないよ、色々作るの。しかもそれを山岡に食べてもらえるのは嬉しいしね」
「そうですか。あのっ、じゃぁ食費とか」
「うん。ちゃんともらってたから安心して」
「あ…よかったです。あの、これからも」
「うん。その方が山岡が気楽みたいだからね、きっちりもらうよ」
よかった、と安心する山岡は、記憶がなくても本質は変わらない。
そのことに少しだけほっとする日下部の前で、山岡がさらに「それと…」と口を開いた。
「ん?」
「あの、お料理…たまにならオレも手伝い…」
ます、と最後まで言わせずに、日下部の顔が渋面になる。
「え…?」
「それは、遠慮する」
「え?」
「クスクス、なるほど、それも忘れたか」
「え?あの、日下部先生…?」
参ったね~と笑う日下部は、悪戯っ子のような顔をして、チラリと信号待ちの間に山岡に視線を走らせた。
「え…?」
「ふふ、記憶にないか。おまえが、メス以外の刃物を持ったら、壊滅的に下手なこと」
「え…?」
くるりんと目を丸くする山岡は、本気で自覚がなさそうに驚いている。
「包丁なんてね、もう2度と持たせるものか、って俺は思ったよ。なにせ、1度持たせたことがあるんだけど、それはもう恐ろしいのなんのって」
「え…」
「案の定、そのときはしっかり指を切ってな」
「そ、んな、ことが…?え?でも、オレ、包丁なんて使ったこと…」
「うん。俺があのときやらせたのが初めてだったみたいね。って言っても、その記憶が今のおまえにはないだろうけど」
「すみません…」
しゅん、と俯く山岡に、日下部は気にするな、と微笑んで、青信号になった道の先に視線を戻した。
「まぁなんだ。だから、そのときにおまえと約束したんだ」
「えっと…?」
「俺が見ていないときに勝手に料理はしない、ってね」
「そ、う、ですか…」
「うん。それでもどうしてもやりたそうだったからな、それなら、って、俺が見てやれるときに、子供包丁から練習を始めようって話になったんだ」
家に行けば山岡用の包丁があるよ、と笑う日下部に、山岡の目は不思議そうに揺れていた。
「クスクス。覚えてないか~。うん、覚えていないよな」
「すみません…」
しゅん、とまたも俯いてしまう山岡に、日下部は「ごめん、ごめん」と言いながら、気安く笑った。
「だから、じゃぁ約束のし直しな」
「っ…え?」
「おまえは、俺がいないときに1人で勝手に料理をしてはいけないし、包丁を持つなんてもってのほかだからな」
「っぇ、あの…」
「破ったら、とっても厳しいお仕置き」
「え…?」
「ふふ、覚えていないから、お尻ペンペンからだけどな。本当なら、パドルっていう道具で百叩き、っていう約束になっているんだよ」
「え…」
なんだそれは、と怯え驚き固まる山岡に、日下部は少しだけ悪戯っぽく、そしてとても意地悪に、にっこりと微笑んだ。
「痛い思いをしたくなかったら、守れよ」
「っ…」
(なんだこの横暴な人は…)
ぎょっとして日下部を見る山岡だけれど、日下部はそんな視線もただただ面白そうに受け止めているだけだ。
「ふふ、俺が横暴なのは今に始まったことじゃないからな。ちなみに眼鏡も。強引に取り上げたのは俺」
「っ~~!」
そういえば、と思い出し、こめかみに手を伸ばす山岡の指先に、眼鏡のつるが触れることはない。
「目が悪いわけじゃないんだから、せっかくの美貌を隠すなって」
「っ…目が悪いのは日下部先生の方です。美貌って…」
「ん?」
「こんなオレなんかの顔…」
眼科に…と山岡が言いかけたところで、日下部の目がニッコリととても意地悪く弧を描いた。
「言っちゃったな」
「え…?」
「『オレなんか』」
「っ~~!そ、れは…」
しまった、と口元を押さえた山岡だけれど、時すでに遅し。
口から零れた口癖のようなその言葉は、はっきりと音になって日下部の耳にも届いてしまった後で。
「く、さかべ、せんせいっ…」
「さぁてと。俺の大事な大事な山岡泰佳を、『なんか』なんて侮辱する悪い子は誰かな~」
「っ、子って…」
「ふふ、そ~んな悪い子は、た~っぷりお尻を叩いて反省させてやらないとな」
クスクスと笑いながら、ちらりと流し目を送ってくる日下部に、山岡は顔を真っ赤にして震えている。
「っ~~」
「帰ったら、覚悟しておけよ?」
「や…。嫌です…」
ふぇっ、とすでに泣き出しそうな顔をして、助手席でもぞもぞと身体を動かす山岡に、日下部はにやりとした人の悪い笑みを浮かべていた。
(ヤバイ…可愛い。だから、そういうところ!)
変わらないなぁ、としみじみ噛み締める日下部は、すっかり持ち前のSモードが発動し始めている。
「クスクス…」
(おまえは、おまえなんかじゃない。誰もが認める天才外科医。俺のヒーロー…)
ふっ、と笑みを漏らす日下部に、ビクッと身を竦めた山岡は、完全に日下部の言動に怯えていた。
ブォンと走り出した車の中で、山岡の緊張感がピークに向かうのを、隣で日下部が面白そうに観察していた。
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