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第387話
そうして帰り着いた日下部と山岡が暮らすマンションで。
おっかなびっくり室内に上がった山岡は、リビングに立ち尽くしてオドオドとしていた。
「ふふ、そんなに緊張しないで、自分の家なんだから寛いで」
「っ…」
はぃ、と頷く山岡だけれど、その目は忙しなく室内をキョロキョロと見回し、何にも見覚えがなさそうに戸惑うばかりなのを、日下部は落胆の思いと共に見つめていた。
「お、じゃま、します…」
仕方なく、といった様子で、山岡がそろりと足を動かして、とりあえず目の前に見えたソファにストンと座るのを、日下部が、ぐっと何かを堪えるようにして見る。
「ただいま、というのは、ハードルが高い?」
「っ…すみません」
自宅とは思えないんです、と俯く山岡に、日下部はふるりと首を振った。
「うん。謝らないで。無理強いをするつもりはないんだ」
大丈夫、と微笑む日下部に、山岡はぐっと拳を膝の上で握り締め、ますます深く俯いた。
「さて」
するり、と衣擦れの音を響かせて、日下部が1歩、山岡の元に近づいた。
「っ…」
途端にびくりと緊張感を滲ませる山岡に、日下部の顔には苦笑が浮かぶ。
「クスクス、そんなに怯えなくても」
にこりと笑う日下部は、自分の言動が山岡をそうしてしまっていることを分かっていた。
「っ、だ、って…」
怖いことを言ったのはあなただと、すでに涙をいっぱい溜めた目を上げてくる山岡に、日下部が「うっ」と意味不明な呻き声を上げている。
「まぁでも禁句を言ったのはおまえだからね」
「っ、そ、れは…」
「うん?」
「っ~!も、う、言いません。言いませんから、だから…」
よほど仕置きから逃れたいのだろう。必死になって訴える山岡に、日下部の目はニコリと弧を描いて薄く細められた。
「そう言って2回目だからな?」
信用ないよ、と笑う日下部に、山岡がぐぅ、と呻きながらも哀れっぽく懇願する。
「今度こそ、本当にもう言いませんから…」
「クスクス、うん、そう願うよ」
「じゃぁ…」
「うん、そのために、今少し痛い思いしておこうな」
ほら立って、と促す日下部に、山岡の目がうるうると揺らいでいた。
「日下部先生…っ」
「なに?ほら、下だけ脱いで」
「っ~~!い、や、です、そんな…」
イヤイヤ、と駄々っ子のように首を振る山岡に、日下部は敢えて大袈裟に溜息をついてみせた。
「はぁっ。禁句を言ったのはおまえだろう?」
「そ、です、けど…」
「俺にも俺の、譲れないものがある」
「っ…」
ぐっ、と腕を組んで山岡を見下ろす日下部に、山岡の視線はオドオドと戸惑った挙句、ふらりとリビングの床の上を彷徨った。
「おまえに、俺との記憶があってもなくても」
「っ…」
「俺にとって山岡は、山岡なんかじゃない。ただそれを、分かって欲しいんだ」
「日下部先生…」
真剣に、真っ直ぐな言葉を真っ直ぐに放ってくる日下部に、山岡は深く俯いて唇を噛み締めた。
「山岡?」
「っ…」
「山岡」
「っ~~!」
「……はぁっ。さすがに無理、か…」
「ごめ…」と、小さく謝罪の言葉を口にしようとした日下部に、山岡の頭がふらりと持ち上がった。
「え…?」
のそりとソファーから立ち上がった山岡が、意を決したようにぐっと腹に力を込める。
「っ…」
きゅっ、と引き結ばれた唇が、その覚悟のほどを語っていた。
「オレは…」
(理解も、納得もできない…)
自分には価値なんかなくて、人の幸せを壊す疫病神で。
誰かに大切にされるような、そんな資格なんてない分際の人間で。
「なのにあなたは…」
(それこそ、「オレなんか」、あなたのことを、忘れ去ってしまったような人間なのに…)
それでも日下部は、本気で山岡のことを見つめてくるのだ。
「っ…」
理解も、納得も出来ない。
けれど、この日下部千洋という男が、本気で自分と対峙していることだけはよくわかるから。
カチャリ、とズボンのベルトに掛けた手が、するりとそれを外して抜き去った。
「山岡…?」
「っ、っ…」
(あなたの、本気に、オレが返せるのは…)
誠意だけ。
「え…?山岡?」
「っ…」
ぎゅっ、と目を固く瞑った山岡が、ぐっとズボンのウエストを両手で掴み、ずるりと一気に引き下ろそうとする。
「え…?」
「っ…」
震えるその手が、まさにズボンと下着を引き下ろそうとしたその瞬間、日下部は咄嗟にその身体を抱きしめていた。
「日下部先生?」
「っ、っ…」
「ぇ、あの、罰…」
ぶつんですよね?と小さく震えながら囁くように言う山岡に、日下部がゆるりと軽く首を振った。
「もういいよ」
「っ、日下部先生?」
「いいんだ。いい。俺はな、ただ、おまえに貶められるおまえを見るのが、辛いんだ」
「っ、日下部先生…」
「だから、俺が本気でおまえのことを、大切なんだって、分かってくれたら、それでいい」
ふわり、と背を撫でる日下部の手のひらからは、溢れるほどの慈しみが伝わって来ていた。
「っ、オレ…」
「うん。俺はさ、おまえが、俺との記憶を全部失くして、昔のおまえに…俺と出会う前のおまえに、戻ってしまったのかな、って思ってたんだけど」
「日下部先生…」
「だけど、多分、違う」
「え…?」
「俺と出会う前そのものと、何も変わっていないように見えるけれど。だけど、違う。記憶がなくても、山岡の中には、やっぱり2人で積み上げた時間は、ちゃんとあるんだ」
「く、さかべ、せんせい…?」
「小さな欠片は、確かに山岡のものとなって、山岡の中に刻み込まれてる。俺たちが重ねた時間は…そしてこれから重ねていく時間は、きっと無駄なことなんて、何一つない」
「っ…」
「だから俺は、何度でもおまえに愛を伝えるよ?おまえが何度忘れてしまっても、理解できないともがいても。俺はおまえを愛してるから」
にこりと微笑む日下部に、山岡はふらりと困惑に目を彷徨わせ、そうして困ったまま、ストンと床にその視線を落としてしまった。
「オ、レは…」
「ん…。まぁ、焦らず、ゆっくりな」
それでいい、と頷く日下部に、山岡は戸惑ったまま、とりあえず、ズボンのウエストから手を離し、ふらつく視線で無意味に床の目をたどっていた。
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