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第388話
それから、日下部が作ってくれた夕食を2人で食べて済ませ、順番に風呂に入って、いざ、寝ようか、となった頃。
「っ、っ…」
そこが寝室のドアだ、と教えられた扉を開けた山岡が、ドーンとたった1つ、大きなベッドが置かれている室内に、目を白黒させて困っていた。
「ん?山岡、どうかした?」
入らないのか?と首を傾げながら、風呂上がりの濡れた髪をわしわしとタオルで拭っていた日下部が、後ろから声を掛けた。
「っ、あ、いえ、その…」
「うん?」
寝室のドアの前で、ピタリと止まってしまっている山岡の顔を、日下部がひょいと覗き込む。
「っわぁっ!」
「え、なに…?」
「ち、ち、ち、近いですからっ…」
急に!顔!と慌てて飛び退る山岡に、日下部はクスクスと笑いながら流し目を送った。
「なるほど」
「なんですか…っ」
「ベッド。1つだから、困っていたのか」
「っ~~!」
当たり前です、と言わんばかりにキッと目を向けてくる山岡に、日下部は面白そうに頬を緩ませた。
「まぁ、恋人同士だったからね。これは、仕方なくない?」
「っ…それは」
「ふふ。大丈夫。幸いベッドは広いし、俺をただの同居人としか認識していないおまえには、何もしないって約束もしただろう?だから…」
「っ、でもっ…オ、オレっ、こっちのソファーで寝るのでっ」
「は?」
「何かっ、掛けるものだけ貸していただければ…」
カァァッと頬っぺたを耳まで赤くしてオドオドと視線を彷徨わせる山岡に、日下部の目がスゥッと細められた。
「ソファーって、おまえね…」
休まらないだろ?と冷ややかな目をして見せる日下部に、山岡はブンブンと頭を振って、そろりそろりと後退った。
「っ~~!大丈夫ですっ。だ、って、医局とかでも、たまに、ソファーで仮眠とかしてしまうこともありますからっ」
「それとこれとは…」
「お、同じですよっ。大丈夫ですから、本当」
お構いなく、とリビングのソファーに向かおうとする山岡の腕を、日下部がぐいっと掴んだ。
「えっ…?」
「ったく」
「うわぁっ?ちょっ、なにす…」
掴まれた腕をそのままぐいぐいと引っ張られ、ぽーんと放るようにベッドに投げられてしまった山岡が、マットレスの上でバウンドしながら驚いている。
「ふん。どうしてもおまえが俺と一緒のベッドで寝るのが嫌なら、俺がソファーに行く。おまえがベッドを使え」
「え?なんでそうなるんですか?オレ、別に日下部先生を追い出したいわけじゃ…」
「俺も、おまえをソファーに寝かせて自分だけベッドを使う気なんてさらさらないから。おまえはベッドで寝るの。譲らないよ」
つん、と子供みたいな態度でそっぽを向いた日下部に、山岡はオドオドと戸惑って、そのままストンと俯いた。
「あ、の…」
「なに」
「日下部先生、ベッドで寝て下さい」
「それでおまえがソファーに行くっていうなら、答えはい、や、だ」
「っ……きません」
「うん?」
「行きません。一緒に…寝ます、から…」
だから日下部もベッドを使え、と、片側半分を大きく空け、ずるずると隅に寄った山岡がチラリと前髪の隙間から日下部を窺った。
「っ…」
「オレ、も、ベッドを使わせてもらいますから…。日下部先生も、どうか…」
きゅぅ、とシーツに皺を寄せ、オドオドと日下部を窺う山岡に、日下部がまたもクラリと目頭を押さえた。
(これで誘ってないとか…悪魔だろ)
山岡の天然振りにやられてしまいそうになりながら、それでも日下部は冷静さを装って、ゆっくりとベッドに乗り上げた。
「じゃぁお言葉に甘えて」
「っ…」
日下部の体重でマットレスが沈むと、途端に山岡の身体がビクリと強張る。
「ふはっ、だから、そんなに緊張しなくても、何もしないから」
「は、はぃ…。分かってるんですけど…」
「それとも、何かして欲しいっていう期待?」
「っなっ…?」
クスクスと揶揄うように目を細めた日下部に、山岡の目がまん丸くなった。
「馬鹿なことっ、言わないでくださいっ」
「ふふ、だって何もしないって言ってるのに、あまりに警戒しているから」
「っ、それはっ…」
恋人だったと聞いて、同居している家にベッドは1つ。
子供じゃないんだから、その意味を想像するのはそう難しいことではなくて。
だけど、記憶のない自分には、それはただただ恐ろしいだけのことで。
「っ、オレっ、寝ますからっ」
もう構うな、と背を向けて、がばりと掛け布団を被ってしまった山岡に、日下部が可笑しそうに笑い声を上げていた。
「ふふふ、なるほど。系統的健忘って、そうか。そのことも当然忘れちゃっているんだよな」
(っていうことは、山岡の中では、山岡は処女なのか)
にんまりと口角を持ち上げる日下部の、不穏な空気を察してかなんなのか、山岡がもぞもぞと、ますますベッドの隅に寄って、ずるりと落っこちかけていた。
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