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第390話
その後、大急ぎで放射線科の用事を済ませ、山岡は中庭の片隅に足を向かわせていた。
のんびりと日光浴をする入院患者の横を通り過ぎ、明るい日差しが差す庭の遊歩道を抜けていく。
ひらりと白衣の裾を翻し、松島との待ち合わせ場所へ向かった山岡は、ベンチに座る松島が軽く手を上げて気づいてくれたのにふわりと微笑み、タタタッと最後の数歩の距離を詰めた。
「お待たせしました」
ぺっこりと頭を下げる山岡に、「大して待っていませんよ」と松島が笑う。
その手がスッと蓋つきのコーヒーの紙コップを差し出してくれたのを、驚いたように見つめた。
「え、え…?」
「くすくす、ただ待つのもあれですから、買ってきたんです。コーヒー、好みが分からなかったから、とりあえず無糖のブラックですけど…」
「あ、そんなお気遣い…」
「飲めますか?」
「はぃ。あの、ありがとうございます」
2つ持たれた同じカップの1つを受け取って、山岡がぺこりと頭を下げる。
「お代は…」
「ふふ、気にしないで下さい。僕が飲みたくて買ったんです」
だからいりません、と笑う松島に、山岡はおろおろと戸惑って、くしゃっと顔を歪めた。
「お話、聞いてもらうのはオレなのに…」
「僕も、それにかこつけてコーヒーブレイクできますから」
ウインウインです、と微笑む松島に、山岡はへにゃりと表情を崩して、じゃぁ…と大人しく頷いた。
「いただきます」
「どうぞ、どうぞ」
ついでにベンチも、と座るのを勧める松島に、山岡は頭を下げながら隣に腰を下ろす。
爽やかな風が吹き抜ける中庭の片隅で、白衣姿の2人が、同時に紙コップを傾けた。
「……」
「……」
シーンとした沈黙が、2人の間を支配する。
けれどもそれは不快なものでは決してなくて。山岡は口を開くタイミングを、そして松島は、そんな山岡をただのんびりと待っている、とても穏やかな沈黙だった。
「…っ」
ごくり、とコーヒーをまた1口飲み干した山岡が、そろりと視線を持ち上げる。
ばさりと落ちた前髪の間から、隣の松島を覗くように窺って、山岡がその口をゆっくりと開いていった。
「オレ…」
「はい」
ふわり、と真綿で包み込むような、柔らかな松島の相槌だった。
その声に、山岡の心はすぅっと軽くなった。
「オレ、正直、ちょっと、辛いなぁって…」
「はい」
静かに頷く松島に、山岡はぐっと手の中のコーヒーカップを握り締め、ゆるりと顔を上げた。
「記憶…一部を失くしたって…」
「そうですね」
「それだけでも、なんか、オレって、だめなのに…」
「ふむ」
「仕事、減らしてもらったり、突然失神したり…すごくみんなに迷惑を掛けてて…」
「はい」
「っ、それに多分、研修医の子とか、看護師さんにまで、気を、遣わせてしまっていて…」
ぽつり、ぽつりと話しながら、山岡はぼんやりと手の中のコーヒーカップを弄んだ。
「山岡先生…」
「あっ、決して嫌なわけじゃないんです!ありがたいんです。だけど…だけどやっぱり、どうしても、辛くって」
「そうですか」
「オレのせいで…。オレのために…。オレが、記憶の一部を、失くしてしまったから…」
ぎゅぅ、と指先に力が入る山岡の手を、そっと見つめて、松島は小さく息を詰めた。
「山岡先生」
「っ、っ…」
「お責めに、ならないでください」
「だけどっ…」
ふわり、と、力の入る山岡の手に自分の手を重ねて、松島は、ふわりと優しく微笑んだ。
「焦りは禁物ですよ」
「っ…そう、ですね。分かってます…。だけど」
「山岡先生?」
「っ、何より、辛いのが…っ、日下部先生との…こと、なんです…」
きゅぅ、と眉を寄せて俯く山岡の背を、空いた片手で松島はそっと撫でるように支えた。
「日下部先生ですか」
「はぃ…。あの、日下部先生は…」
「はい」
「その、お、オレと…こ、恋人関係にあった、って…」
「っ…そうですか」
(あぁ、言ってしまいましたか、あの人は…)
ひゅっ、と一瞬息を飲んで、けれどもその後は静かに頷きを返した松島に、山岡の目がそろりと持ち上がった。
「変だと、思いますか?」
「いえ。お2人のご関係は、存じておりましたので」
「えっ?」
「すみません。そのお話は、多分、院内スタッフでは、知らない人の方が珍しいのではないでしょうかね」
「え…」
周知の事実だったんです、と微笑む松島に、山岡が驚いたように目を瞠った後、ふにゃりと俯いた。
「そうだったんですね…」
「はい」
「っ、じゃぁ、そのオレに、日下部先生が、ああやって親しそうに接するのは、やっぱり前なら普通で…」
「山岡先生?」
(あぁ、まったく、本当にあの人は…)
ぐっ、と何かを堪えるように指先に力がこもる山岡を静かに見つめながら、松島はそっと優しく先を促した。
「っ…オレ、日下部先生が、本当に、真剣に、オレのこと、大切にしてくれようとしているの、分かるんです」
「はい」
「きっと前のオレは、それを、ちゃんと、受け止めていたんですよね…」
「山岡先生…」
「日下部先生の中には、その記憶があって…。オレも、覚えていないなりに、そんな日下部先生に、応えなきゃ、って、思って、て…」
「山岡先生」
(それは…)
「だけど…。オレは、上手くそれを受け止められなくて…。きっと以前の通り…普通に接してくださっている日下部先生に、いちいち、勝手に、構えてしまって…」
「山岡先生…」
「その度に、日下部先生に傷ついた顔をさせていて…。きっと、何度も何度も、傷つけてばかりいて…」
「っ、山岡先生」
「何度も何度も謝ってしまうんです。何度も何度も謝らせてしまっているんです。ごめんなさい、ごめんな、って。オレ…」
「山岡先生…」
「日下部先生はそれでもいいから、って言いますけど…。オレが覚えてなくてもいいから、それでも何度でも、その、あ、愛しているって伝えるからって、言いますけど…」
「……」
「傷ついていないわけがないのに…。辛くないはず、ないのに。苦しいのに、なのにそれでも、大丈夫だからって、平気な顔をして笑うんです。それが…」
「山岡先生」
「オレはっ、それが、辛っ…」
うぁぁ、と頭を抱えて呻く山岡の手から、パシャリと中身の残ったコーヒーのカップが地面に落ちた。
「オレなんかがっ…。オレなんかにっ…。みんな、気を使って、仕事もフォローしてもらってっ、オレを、大切だなんて…っ」
「山岡先生、山岡先生」
「辛いですよ、松島先生」
「山岡先生…」
「辛いんですよ。オレは、日下部先生がご存じのオレじゃない…。日下部先生が求めている、望んでいる、オレじゃないんです…っ」
「山岡先生っ…」
「あの人の愛してる、が辛い…。あの人の側にいるのが、苦しいんです…っ」
「っ…山岡先生」
くしゃりと、泣きそうに顔を歪めた山岡の肩を、松島は反射的に抱き寄せていた。
「っ、あの人の愛が向くことが…」
怖い、とは、さすがに言葉にはできなかった。
だけどただ、飾らない本音は、そこだ。
きゅぅ、と身を小さく縮こまらせて、カタカタと微かに震える山岡の身体を優しく抱きながら、松島はそっとその背を撫でて微笑んだ。
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