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第391話

「それでは、離れてみますか?」 「ぇ…?」 「日下部先生から。距離を置いてみましょうか」 「っ…」 ぽつり、と呟かれた松島の言葉に、山岡の目が丸くなって、がばりと顔が持ち上げられた。 「ご負担ならば、少し離れてみるのも、手だと思いますよ」 「だ、けど…」 「記憶のことで、焦りや不安を抱えてしまうのが、今の山岡先生には、一番よくありません」 「それは…」 松島の諭すような言葉に、ふにゃりと俯く山岡の目が、中庭の地面をぼんやりと映し出した。 「日下部先生の無償の愛…。記憶のないあなたには、それはただの罪悪感を助長するものにしかなりません」 「っ…」 「そもそもが、山岡先生は日下部先生との何かが辛くて、健忘になってしまわれたんですよ?」 「ぇ…?あ…」 「日下部先生との記憶だけが、すっぽりと抜け落ちている意味。あなたは、無意識下で、日下部先生を拒んでいる、んです」 「っ…」 ぐ、と息を詰めた山岡の背を、松島はゆっくりゆっくりと撫で下ろした。 「それを、無理に日下部先生のお側にいるのは、得策とは思えませんよね。普通に考えても」 「だ、けど…」 「解離性障害は何故起こるのか」 「っ…」 「さすがにご存じですよね?」 医師だから。例え精神科領域が不得手でも、それくらいは知っている。 「それは、はぃ。自己防衛のため。それから、心が破綻した症状として現れることも…」 「そうです」 「ストレスや心的外傷から、心を守るため…」 「はい。ですから、現状で、山岡先生にこれ以上、ストレスや負担を掛けるのは、病状から見ても、明らかに好ましくありません」 ねぇ?と微笑む松島に、山岡の顔がふにゃりと歪んで、くしゃくしゃな泣き顔になった。 「っ、あまりに、薄情者ですね、オレ…」 「山岡先生?」 「日下部先生という方のことを、忘れてしまっただけでも申し訳ないのに、想われていることが辛いだなんて。オレ、すごく酷い…」 「そんなことは、ないと思います」 「でも…」 「優しいですよ。あなたはとても、お優しい方なんです」 大丈夫、大丈夫だと背を撫でる松島に、山岡の身体は自然とゆったり寄り掛かっていった。 「もしも薄情だと、酷い人間だというのなら、そもそも相手の想いに応えられないことが辛いだなんて思い悩まないんです」 「松島先生…」 「相手の気持ちを利用することなんて簡単で、そのことに罪悪感なんて持たないものですよ?」 「っ、そ、れは…」 「けれどもあなたはこうして、日下部先生のことを思いやっているじゃないですか。記憶のない自分が、日下部先生を傷つけてしまっていると、ご自身こそが傷つかれているじゃないですか」 それは、優しい人間のすることだ、という松島に、山岡は静かに目を伏せた。 「だから、離れましょう」 「え…?」 不意にきっぱりと提案された松島の言葉に、山岡がぱちりと目を開け、こてりと首を傾げた。 「あなたは、あなたの心を守るために」 「ま、つしま、先生…?」 「あなたの心を癒して、解離性障害を克服するために」 力になります、と優雅に微笑む松島に、山岡はつられるように頷いた。 「あ、でも、オレ、マンション…」 「あぁ、同居なされているのですか。そうですねぇ…では、うちにいらっしゃいますか?」 「ぇ…?」 「それなりに広いので、もしよろしければ」 歓迎しますよ、と笑う松島に、山岡の目がうろうろと彷徨った。 「ふふ、遠慮はいりません。だって僕と山岡先生は、友人でしょう?」 「ぇ…」 「ふふ、山岡先生は僕の患者で…でも僕は、同僚…いえ、それ以上の関係…ご友人と、思わせていただきたいなぁ、と思っているのですけど」 駄目ですか?と微笑む松島に、山岡は困惑しながら瞳を揺らした。 「山岡先生?」 「あ、いぇ、だめだなんて、そんな。だけど、その、オレと友人になるメリットなんて…」 「メリットですか?ふふ、おかしなことを言う人ですね。友情に、打算なんてありませんよ?」 「っぇ、友情…」 耳慣れない言葉を聞いたと、山岡の目が驚きに見開かれる。 「ふふ、友情です。あなたと過ごす時間は、ただ心地がいい。それだけではいけませんか?」 「っ、そんな…」 そんなこと初めて言われたと、山岡の目はますます丸くなった。 「ですから、いかがですか?」 スッと差し出された松島の手を、山岡は困惑したままぼやりと見つめる。 「友情の証に」 「っ…」 「僕は、あなたの、力になりたい」 にこり、と微笑む松島に、不安定な山岡の心はふらりと揺れた。 「本当に、オレで、よければ…」 「ふふ、あなたがいいんです、山岡先生」 これで友人ですね、と妖しく微笑む松島の手を、山岡はきゅっと握って頷いた。 「あぁ、とても綺麗な指先だ。外科医の手ですね」 「そんな…。松島先生も、ですよね」 何言ってるんだ、と恥ずかしがる山岡の目を覗き込んで、松島が優雅に笑った。 「そうですね。ふふ、同じ外科医同士、物理的に切った縫ったは得意です。けれど」 「はぃ」 「あなたの心を、同じように切った縫ったはできないんです」 「そう、ですね…」 心だけは、どんなに腕のいい外科医でも、おいそれと簡単に治すことはできない。 「だから、ゆっくりと」 「はぃ…」 「ゆっくりでいいんです。山岡先生が、山岡先生のペースで、無理なく進んで行けるように」 「はぃ…」 「僕は、全力で支えになりますからね」 頼ってください、と微笑む松島に、山岡はゆっくりと瞳を閉じてその身体を凭れかけた。 「あなたの苦痛が、少しでも和らぎますように…」 そっと頭を撫でる松島の手のひらに、山岡は安心したように頷いた。 その重みを受け止めながら、松島はにぃっ、と口元を持ち上げた。 そうして、山岡が松島と中庭で会話している頃。 午前中の外来を猛スピードで捌き終えた日下部が、ふらりと病院の連絡通路を歩いていた。 そのとき、何気なく窓に巡らせた視線が、中庭のずっと奥、山岡お気に入りのベンチの上に、まさしくその山岡の姿があるのを捉えた。 「え…?」 しかも揺れる人影は2つ。 両方とも白衣を纏った医者で、遠目に見てもよくわかる。 その2人が、寄り添い合って互いに身体を預けていることが。 「っ…誰だ?」 どこかで見たことがあるような。 だけど、連絡通路の窓からは、随分と離れた中庭のベンチは遠すぎて、その相手が誰かは判別しづらい。 「原…は白衣なんて滅多に着ないし。うちの科の医師…でもない。あれは…」 う~んと唸って目を凝らし、中庭を凝視する日下部は、それが先日山岡を診せた、脳外の医師であることに気が付いた。 「あ。松島先生…っ」 どうして?という疑問が、まず真っ先に思い浮かび、次に、何をしているんだ、という苛立ちが頭をもたげる。 「あんなにくっついて…っ」 俺のだ!という、どうしようもない独占欲が湧き上がり、気づけば日下部は、廊下の床をタンッと蹴って、中庭に向かって駆け出していた。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」 連絡通路から、エレベータを待つ時間も惜しく、階段をぐるぐると駆け下りて。 中庭に続くドアがある廊下を疾走し、遊歩道を抜けて、たどり着いた山岡のお気に入りスポットには。 「はぁっ…くそっ、入れ違いに戻ったのか…」 シーンと人気のないベンチが1つ、ぽつんとその姿を晒しているだけだった。 「はっ…ここで、一体、何を…」 日下部と関わる前、山岡にとってここは、1人で静かにお昼を食べられる穴場だった。 日下部と関わり始めてからは、2人で昼食を摂ることが増え、その中でも時々この場所は利用していたのだ。 「それも、おまえは覚えていないんだよな…」 そっと手を伸ばして触れたベンチの座面には、まだ微かに人が座っていたことを証明する温もりが残っていて。 「俺たちの思い出の場所で、おまえは松島先生と一体何を…?」 抱き合ってこそいなかったけれど、その身体は隣同士で密着し、どうしたって親密な空気を醸し出していたのが見えていた。 「っ…くそっ、うだうだ悩んでいてもしょうがない」 探しに行くか、と踵を返した日下部が、再び元来た道を駆け戻り、病院内へと入っていく。 「昼ご飯…一緒に食べるっていう約束も、どうせ覚えていないんだよな…」 待っててくれるかな?と浮かんだ期待は、一瞬で自ら打ち消す。 どこを探せば、と考える日下部は、真っ先に食堂と売店を除外した。 「医局で栄養ゼリー…。当直室ストックのカップ麺…。抜き?」 抜かれると、病棟かナースステーションか?と候補を絞りながら、もうすぐ昼になるかという時間、時計を見下ろして、日下部はとりあえず消化器外科病棟へ上がっていった。

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