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第392話
「あ、日下部先生、お疲れ様で~す」
がちゃり、と医局のドアを開けた途端、プラプラと椅子の上で足を揺らして仰け反っていた原が、ギシッと身体を起こして出迎えの声を放って寄越した。
「あぁ。きみ、昼は?」
「え?あ、今からですけど」
ちょうど書類が仕上がったところです、と笑って見せる原に、日下部は黙って頷いて、ぐるりと医局内を見回した。
「うぅん…」
その目は、山岡の姿を見つけられずに、くしゃりと寄せられる。
「どうしました?」
「いや、山岡先生がな。見てないよな?」
「え?あ~?さっき来て、日下部先生の机にタブレットとメモを置いて、出て行きましたけど?」
「は?え?いつ」
「え、本当に、ついさっきです。日下部先生が入ってくるちょっと前くらい…」
原の言葉に驚きながら、日下部がスタスタと自分のデスクに向かう。
「いちいち入れ違うな…」
タッチの差で後手後手に回っている気がしないでもない日下部が、デスクを見下ろせば、そこには放射線科に使いを頼んだ画像のタブレットと、今日の午後イチに追検査がねじ込めたことを伝えるメモが置かれていた。
「は?今日?午後イチ?」
オーダーはすでに山岡が出してくれたことも、そのメモには書かれている。
「暇なのか…?」
いつでも何番待ちにもなっている、常に予約で溢れているCT検査室を思い浮かべながら、日下部が首を傾げている。
「一体どんなコネがあるやら…」
自分もなかなか、院内のことに関しては、我儘や無理を押し通すタイプなのを棚に上げ、山岡がぶち込んできた検査予約は不思議でならないといった様子だ。
「まぁ、でもこれはつまり…」
この患者の病室か、とあたりをつけて、日下部は踵を返して医局を出て行った。
そのまま真っ直ぐ向かった先は、消化器外科病棟の一般病室で。
「コンコン」
開けっ放しの大部屋のドアを、ノックする真似をして声を掛け、テクテクとその部屋の中に入っていった。
「あ、やっぱりいた」
「え?あ、日下部先生…」
ふわっと頬を緩ませてしまいながら、目当ての患者のベッドの脇で、何やら説明をしていた山岡に近づけば、くるりと目を丸くした山岡が振り返った。
「追検査の件?そこまでやってくれたんだ」
ありがとう、と言いながら近づいてくる日下部に、山岡がふるふると首を振る。
その仕草に合わせてパサパサと揺れる前髪が、相変わらず山岡の表情を見えにくくさせていた。
「これくらいしか、出来ないので…」
同意書はいただきました、と言って、バインダーに挟んだ書類を差し出してくる山岡に、日下部はお礼を言いながらそれを受け取る。
「十分だよ。無理してない?」
「大丈夫です…」
ぼそりと言って俯く山岡に、日下部は小さく頷いて、くるりと患者に向き直った。
「何度も検査、すみません。午後1番に、検査室へご案内しますので」
「はい、分かりました」
「それで、昼食なのですが…」
「あ、もう止めました」
不意に横から口を挟んだ山岡に、日下部が「さすが」と小さく呟く。
「水、お茶等は構いませんが、食事はこのまま抜いていただきます。朝食後に飲食は…?」
「お茶だけです」
「そうですか、よかったです。ではまた、時間になりましたら担当看護師が呼びに来ますので」
それまでお待ちください、と頭を下げて、病室を出て行く日下部に倣って、山岡も歩き出した。
「悪かったな。オーダーと説明まで」
テクテクと、病棟の廊下を歩きながら、日下部が、何故か半歩後ろにいる山岡に話し掛けた。
「いぇ…」
悪いというなら、全てのオペと処置を丸投げしている自分だ、と俯く山岡を、ふと日下部が振り返る。
「なぁ…」
「っ、は、はぃ…」
「いや、そんなビクつかなくてもいいんだけどさ…さっき」
「ぇ…?」
「中庭で」
「っ、ぁ…」
びくり、と肩を震わせた山岡の、その仕草の意味が分からなくて、日下部はくしゃりと眉間に皺を寄せた。
「なに?」
「ぇ、いぇ…」
ふるりと小さく首を振り、足元を見つめて歩く山岡に、日下部の足が止まる。
「っ、何?俺はただ、脳外の松島先生といたよな?って…。何話してたの?って、聞きたいだけなのに」
何故怯えた態度を取る、と顔を顰める日下部に、山岡がきゅぅと唇を噛み締めた。
「山岡先生?」
「っ…オレ…」
ぽつり、と同じように足を止めて、山岡がちらりと、前髪の隙間から窺うように日下部を見上げる。
そのわずかしか見えない目が、それでも何らかの後ろめたさを浮かべていることに気がついて、日下部の目が疑問に細められた。
「どうした?俺に知られたら駄目なこと?気まずい話?」
「っ…その…」
ぐ、と言葉に詰まる山岡の態度が、日下部の言葉を肯定していた。
「っ、なに。なんなの?松島先生とは、本当に、おまえが記憶を失くしてしまってから会っただけの、関わって日が浅い関係なのに」
「そう、ですよね…。だけど、オレを友人だと思って下さるって…」
「っ、なんだ、それ…」
「オレっ…その、日下部先生が…オレとの、オレが忘れてしまう前の関係を覚えているから…オレに良くしてくれるの…分かっているんです。分かっているんですけど…オレ、そのこと、思い出せなくて…。こ、恋人だったって言われても…やっぱりオレは、オレのことをそんな風に見てくれる人がいるなんて信じられなくて…」
「なに?」
「っ、松島、先生は…。っ、オレは、オレは、やっぱり少しだけ…あなたと…」
距離を、と吐息ほどの小ささで囁かれた山岡の言葉は、日下部の耳にきちんと届いてしまっていた。
ガッと日下部の右手が伸びて、山岡の白衣の襟元を掴む。
「おまえはっ…」
「っひ、ごめんなさいっ…」
「っ、俺は…っ。俺は…」
ぎゅぅっ、と山岡の白衣が皺になるほど手に力を込めていた日下部が、激情を抑え込むように1度だけ深く俯いて、何かを振り切るように顔を上げるのと同時に、パッと襟元の手も放した。
「っ、分かってる。おまえが覚えていないなら、全部1から…いや、全部0から、塗り重ねていってやるって…」
「日下部先生…?」
「その覚悟があったから、おまえの記憶になくても構わないって、そう、思っていたんだ、俺は」
「っ…」
「だけどおまえにとっては、互いの持つ記憶に差異のある俺といるより、なんの誤差もない松島先生といる方が楽…?松島先生の言葉の方が届く?」
「っ、それは…」
きゅぅ、と俯いて、視線を彷徨わせる山岡の答えは、聞かなくても分かるような気がした。
「同居も、辛い?片一方が恋人だという記憶を持っていて、もう片方がただの同僚だという記憶しかない2人じゃぁ、おまえは苦しいだけ?」
「っ…ごめん、なさい…」
本当に申し訳なさそうに肩を震わせる山岡に、日下部は、切なく苦しい泣き笑いを浮かべた。
「責めてない。責めてないよ、山岡」
「っ、日下部先生?」
「俺はただ、おまえを大切にしたいだけなんだ」
きゅぅっと苦しげに眉を寄せ、それでも慈しみのこもった目を日下部が山岡に向けたところで、山岡の目が大きく見開かれて、隠していた顔はがばりと持ち上がっていた。
「え…?山岡?」
「っ…オレはっ…オレはあなたに…っ、大切に思われちゃいけないっ…。あなたに大切にされることを…知っちゃ…」
「山岡っ?」
うぁぁ、と呻いて頭を抱え、がくりと膝を折る山岡に、日下部が慌てて手を伸ばした。
「あなたの愛は…っ」
ぐしゃりと、自分の髪を引っ掴み、むしり取る勢いで引っ張る山岡の手を、日下部が宥めようと必死で撫でる。
「山岡っ。山岡っ」
「っあぁ、あなたに愛されるのも…あなたを愛するのも…駄目…。いらない…。したらいけない…。じゃないとオレは、オレは…」
1人で立てなくなる…。
掠れた吐息が紡ぐ言葉を、日下部はヒヤリと冷たい思いで聞いていた。
「っ、っ、山岡…」
「オレを…大切になんて…思わ、ない、で…」
ぐぎぎ、と奥歯を軋ませて唸った山岡の目が、フッと光を失くしていく。
「っ、あ、おいっ?山岡っ?」
がくり、と意識を失って力をなくしていく身体を、日下部がすんでのところで抱き止めた。
「山岡っ?山岡…?」
ペチペチと頬を叩く日下部の手にも、ぐったりと気を失った山岡は、反応することがない。
廊下で蹲る2人のもとに、たまたま通りかかった看護師が、焦りを浮かべてストレッチャーを取りに行く姿が見え、日下部は山岡を抱き止めたまま、それを見送った。
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