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第393話
「で、山岡先生は、病室で眠っているんですって?」
「あぁ。記憶が混乱して、軽いパニック状態になっていて、あまりに不安定だからな。眠剤入れて点滴突っ込んで寝かしてきた」
「あはは。アンタ…っと、や、日下部先生って、時々乱暴ですよね」
「ふっ、大分調子が戻ってきたようだな?研修医くん?」
ツィーッと妖しい流し目を送られて、原がへらりとあらぬ方を見て曖昧に笑っている。
「まぁ、身体がどこも悪くない山岡を、無理やり病室に押し込むような真似をしている自覚はあるよ」
「はぁ…」
「だけど、見たくない」
「へっ?」
「俺といるのが辛いなんて泣く山岡も、俺じゃない他の人を選んで、そちらといる方がいいなんていう山岡も」
「はぁっ?」
「松島雅」
「え…?あ、脳外の?」
「知ってるの?」
「まぁ、それなりに。有名ですよね、雅先生…」
あはは~?とさらにあらぬ方向を眺めて半端な笑い声を上げる原に、がばっと食いついたのは日下部の方だった。
「有名って、なにが?」
院内の医者事情、日下部は基本、自分と山岡のことにしか興味がないし、同科や同系の内科医、関わる麻酔科や放射線科ならまだしも、他科の医師に関しては、かろうじて名前くらいは知っている程度で、その他の付随情報に関しては、まったく知ろうともしなければ、実際知ることもなかった。
「え~?おれが言うんですか?」
「うん」
「ご自分で調べたらいいじゃないですか…」
気が重い、とぶつくさ言う原に、ニッコリと、笑顔なのに威圧感のある表情を浮かべて、日下部は微笑んだ。
「食堂ランチ、1食おごり」
「ノッタ!」
今日はもう食べ終わっているけど、と言いながら、昼食後、戻ってきていた医局内で日下部につかまっていた原は、明日の昼食タダの誘い文句に、1も2もなく飛びついていた。
「ふふ、相変わらずちょろいね」
「なんとでも。研修医の薄給、ご存じでしょう?そこに1食でも浮く話があるなら、そりゃ食いつきますって」
「薄給?そうだっけ?」
「はぁ?アンタ…じゃなくって、日下部先生だって、新人の頃はあったでしょう…が…って、センリのご令息に向かって、金に貧する話なんてしても無駄でした。無縁に決まってますよね」
おれが馬鹿だった、と呆れる原に、日下部はニコニコしたまま、「で?」と話の先を促していた。
「はぁっ。雅先生ですけどね、あの人、院内でもあなたたちの次くらいには有名な、バイセクシャルの遊び人ですよ」
「は?遊び人?」
「あ~、まぁ、本人的には、遊び人というよりは、恋愛体質なのかなぁ?気に入った相手を見つけると、男女問わず、相手に現行の恋人がいようがなんだろうがお構いなしに落としにかかるわ、手ぇ出すわ」
「松島先生が…?」
「はい。ただ、その遠慮のなさとか、1人1人のスパンが短いから、遊び人、みたいに言われていますけど…。雅雅先生的には、毎回一途で、毎回本気、らしいですね」
「は…」
なんだそれは、と驚いている日下部に、原はへらりと笑って、「そういえば」と続けた。
「おれの同期にも、脳外の研修期間中に、口説きまくられていたやつがいましたっけ」
ちなみに男です、と言う原に、日下部が頭を抱えた。
「確かに綺麗可愛い系の顔立ちで、性格もいいやつなんです。少しおとなしめなのが、まぁ外科には向いていないだろうな~ってタイプの」
「待て待て待て」
ヒクッ、と頬っぺたを引き攣らせる日下部は、原の言葉でふと1人の医者の姿を思い浮かべていた。
(華奢で地味で、一見外科医には見えない…)
「綺麗系の顔立ちの…。山岡も松島先生の好みだって言いたいのか?」
「さぁ?おれは雅先生ではないので」
知りませんよ、そんなこと、という原だけど、ランチ奢りの条件の前に、この情報を言い渋っていた原が考えていたことなど、日下部には手に取るように分かった。
「くっそ。医者としては、結構まともな人に見えたんだけど」
「まぁ、腕は確かですよね。脳外のゴッドハンドって言われてるくらいですから」
「オペ、上手いのか…」
「おれは山岡先生の方が神!って思いましたけどね」
「そうだろう?山岡以上の腕前を持つ外科医なんて…じゃなくって、そういえば、山岡を診せたとき、最後に少しだけ引っ掛かりはしたんだよな…」
「え?」
「なんか、威嚇されたっていうか、牽制されたっていうか」
「はぁ…」
「だけどただ、あれは患者を思う医者心かな、なんて思っていたんだけど…。山岡をとるぞの宣戦布告だったのか…?」
いやまさか、と自問自答している日下部から、原は面倒くさそうに視線を逸らした。
「まぁおれが持つ情報はそれくらいです。それより日下部先生」
「あ?なんだ?」
「なんだじゃないですよ。日下部先生、山岡先生に構っていて、お昼まだでしょう?」
「あ、あ~、うん、そうだな」
昼前に病棟に行って、その後山岡が失神する場に遭遇し、処置をして病室に放り込んで戻ってきた医局で原とおしゃべりをしていた、から、日下部はまだ昼食が済んでいない。
「さっさと済ませてきちゃってくださいよ?午後、病状説明ですよね?」
しかも2家族、とファイルを放ってくる原に、これではどっちがベテラン医師で研修医か分からない。
「1件はきみだっけ?担当」
「はい。でも一緒についてきてくださるって言ってましたよね?」
「あぁ、うん。きみがやらかさないか、見張りな、見張り」
「……」
相変わらず意地悪く言う日下部だけれど、何か困ればすぐに横からフォローしてくれることを、原は知っている。
「なにその目」
「いいえ、別に…?」
「ふぅん、可愛くないね。まぁいいよ。この患者、若い子だからね。くれぐれも、変に感情的にならないようにね」
「心得ています」
「それからご家族も。きっと冷静に聞いてくれる可能性は少ないから。引きずられて動揺するなよ」
「ご家族…」
「うん。家族が重病を患ったと知ったときの衝撃はね…」
俺はきみより分かるから、と笑って手を振る日下部が、誰のことを言っているのかは一目瞭然だった。
「っ、日下部先生…」
「うん。まぁとりあえず、俺は昼ご飯を食べてきちゃうな」
きみは資料でも確認してて、と言い置いて、日下部はひらりと医局を出て行った。
そうして、日下部たちが昼食を済ませ、病状説明室に出掛けた頃、山岡は、日下部に押し込まれた病室のベッドの上で、ふらりと目を覚ましていた。
「あ…オレ」
ゆっくりと持ち上げた手には、点滴の管が繋がり、ベッドに寝転がった身体はぐったりと重い。
「う…この不快感…」
やけに怠い身体の感覚は、眠剤でも使われた名残だろうか。
「オレ、っまた…?」
突然倒れでもして、ついに病室に押し込まれてしまったのだろう。
「なんなんだ、オレ…」
あまりに自分の置かれた状況が理解不能で、疲れたように漏れてしまう溜息を止めることができなかった。
「はぁっ…」
とりあえず、見上げた点滴は、特に治療目的でもなさそうな、ただの電解質液だ。
「抜いちゃおう…」
アルコール綿と絆創膏は、と室内を見回して、そんなものが置いてあるわけがないことに気がついて、山岡はゆっくりと身体を起こし、ベッドから抜け出した。
「っ!」
「わっ…山岡先生?」
カラカラと、点滴スタンドを引きずって病室のドアのところまで歩いて行った山岡が、引き戸を開けたとき。
ちょうど中に入ろうと扉をノックしかけたいたのであろう看護師が、片手を振り上げた姿勢で固まっているのと遭遇して、ぎょっと仰け反った。
「あ、すみません…」
「いえ。お目覚めになられたんですね」
気分はどうですか?と尋ねてくる看護師に、山岡は俯きながら小さく首を振った。
「大丈夫です」
「そうですか」
「はぃ。あのっ、この点滴…」
「あぁ、日下部先生ですね」
「っ、日下部…」
あの人か、と顔を歪める山岡に、看護師はゆるりと首を傾げながら「どうかしましたか?」と不思議そうに山岡を見つめていた。
「いぇ…。でもその、オレ、身体はどこも悪くないと思うので。これ、抜きたいのですが」
「あ、あ~、えぇと、じゃぁ…」
「っ許可は…っ。許可は要りません。別にこれ、なんてことない維持液ですから。自分で抜くので、アル綿と絆創膏だけいただけますか?」
日下部に声を掛ける必要はない、と声を強くした山岡に驚きながら、看護師が「はぁ」と気のない返事をしていた。
「っ、すみません。お手を煩わせて…」
「いえ、そんなことはありませんけど…」
「すみません…。だけどオレは、日下部先生に、会いたく、ない…」
あの人の側に居ると苦しい。あの人の目を見ると心がざわざわする。
苦しくて、辛くて、怖くて、悲しくて。
「っ、山岡先生っ?」
「ごめんなさい。ごめんなさい…」
嫌なのだ。あの人と関わることが、何故だか、もう。
「オレ…」
もう、嫌だ。
へにゃりと眉を下げた山岡が、その顔をふらりと持ち上げ、切なく微笑む。
「山岡先生…」
泣いている、と思ったその顔は、涙の一滴も流してはいなくて。だけどその表情は、泣いているよりもずっと切なく辛そうで。
「ごめんなさい」
ふわりと微笑む山岡の顔に、看護師は何も言えなくなって、黙って頭を下げて、処置道具を取りに出て行った。
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