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第394話
「はぁっ…」
それから結局、看護師が手伝うと申し出てくれた手を借りず、自分で器用に点滴の針を抜去して、止血して絆創膏を止めた山岡は、寝かされていて皺になった白衣を軽く整え、病室を抜け出し、検査室前の廊下を歩いていた。
「結果、もう出てるよな…」
午前中、無理やりぶち込んだCT再検査。その結果が出ているだろうと訪れた放射線科の読影室の前で、山岡はふらりと手元のタブレットを見下ろした。
「あ、山岡先生」
「っ?」
「ちょうどよかった。今ちょうど、ご依頼の画像、そちらに送ったところですけど」
ふと、廊下の先からひょっこりと姿を現した放射線科医が、クイッと山岡の持つタブレットを示してニコリと微笑んだ。
「あ、え…?」
来てない…と山岡がタブレット画面に触れたところで、ポン、と音を立てて、新着画像が届いたことが通知される。
「あ、これですね」
「かな?それで、どうです?」
「っ、これは…」
タンッと画像を表示させて、ジーッと眺めた山岡の目が、くるりと丸く見開かれる。
「専門医の先生から見ても、そう、かな?」
「です…」
「胆管がん」
「はぃ。しかも…」
ぐぅ、と呻く山岡と、苦笑を浮かべてその様子を見守る放射線科医の間に、ふと新たな足音が近づいた。
「山岡先生」
「っ、ぁ、日下部先生」
「結果、出た頃かなって」
インフォ終わったから、と駆けつけてきたらしい日下部に、山岡の身体が緊張を走らせながら、ゆらりとそちらに目を向けた。
「あ、どうも。消化器外科の日下部です」
「えぇ。どうも」
「で…」
「ぁ、今、ちょうど…」
びくり、と身を竦めながら、山岡が恐々とタブレットを差し出したところで、またも新たな足音が側にやって来た。
「おや。山岡先生と、日下部先生と、放射線科の…。お疲れ様です」
にっこりと、白衣の裾を颯爽と翻して現れたのは、脳外科医師の松島雅だ。
「ぁ、松島先生。お疲れ様です」
途端にホッとしたように緊張感を解き、見えにくい前髪の間からでも、確かに緩んだ山岡の口元を日下部は捉えた。
(っ…どうして)
ギリッと奥歯を噛み締めながら、日下部が鋭い目を山岡と松島に順に向ける。
それをさらりと躱してしまいながら、松島は山岡に向かって緩く微笑み首を傾げた。
「あ~えっと、放射線科の先生と、お話し中でした?」
失礼しました、と目元で語る松島に、山岡はそろりと目を上げて、小さく首を振りながら、それでも確かに微笑んだ。
「いぇっ、少し、検査結果のお話だけなので。えっと、松島先生もご用です?」
「はい、午前中ご相談させてもらったガンマナイフを検討中の患者さんの件なんですけどね」
順番待ちしますよ、と微笑む松島に、山岡はワタワタと慌てながら、恐る恐る日下部を見上げた。
「っ…」
「あの、じゃぁ、その、結果なんですけど…」
オドオドと怯えたように窺う山岡に、日下部の空気がゆらりと動く。
「ふぅん?この画像が…?」
タブレットを持った山岡の手の上に僅かに重なるように手を伸ばし、ぎゅぅっとその上から力を込める日下部に、山岡の目がビクリと怯えて肩が震えた。
「く、さかべ先生…?」
ふるりと目を揺らし、眉を寄せる山岡に、日下部の奥歯がギリギリと軋む。
「っ…」
(どうして俺じゃないっ。どうして松島に、安心した顔を向けて見せるんだ…っ)
日下部には緊張した空気を張り詰めさせてばかりいるのに。
松島に向かって和らぐ山岡の表情が、悔しくて憎らしくてたまらなかった。
「っ、たい…」
日下部に重ねられた手を引き抜こうとしながら、山岡が困惑してビクついて、日下部を見上げる。
その姿をジッと見つめながら、日下部は呼吸を整えるように、はぁっ、と深い息を1つ吐き出した。
「……」
「っ、ぁ…」
するり、と山岡の上から退いていった手が、タブレットの脇に滑る。
自然と離れた山岡の手からそれを受け取った日下部が、ストンと画面に視線を落とした。
「うん、この画像な?この画像…っ、これは」
その目がゆっくりと見開かれていく。
「胆管がん…」
「はぃ」
「うちの見立てでもそうですね」
「っ…だけどこれ…」
「はぃ。胆管がん、ですけど、肝門部領域…。しかも見た感じですが、肝動脈にも門脈にも食い込んでいますよね…」
ぐ、と難しい顔をする山岡に、日下部も同じく表情を険しくした。
手元の画像に下された診断がいかに厄介なものかを、2人は知っている。
「オペ適応…ではあるけれど…」
「はぃ…」
「このオペは、難易度最高レベル」
「そうですね」
はぁっ、と深く溜息をつく日下部に、山岡はジッと画像を見下ろして、黙って何かを考えていた。
「ふむふむ、なにやら大変そうなご様子で」
ひょいっ、と山岡の脇から画像を覗き込んで口を挟んできた松島に、日下部が鬱陶しそうな顔を向け、山岡はぎょっとしたように身を引きながらも、こっくりと頷いた。
「大変、です。このオペは、胆管を出来るだけ多く切り取って…しかも門脈や肝動脈を傷つけずに、胆管だけを。併せて血管合併切除再建も同時に行うことになるんです」
「へぇ?」
「生体肝移植並みです。下手をしたらそれ以上」
スッ、とタブレット上の画像を指でなぞりながら、山岡は再びむっつりと押し黙った。
「切れますか?」
「ぇ…?ぁ」
「山岡先生には、これが」
トンッ、とタブレットを横から軽くつついて首を傾げた松島に、山岡は深く目を伏せた。
「山岡先生」
負けじと日下部が、横からピシリと口を出す。
「切れる?」
同じ言葉を繰り返し、ジッと山岡を見つめる日下部に、山岡は1つ息を吸い込んで、ゆっくりと頭を上下させた。
「はぃ、切れます」
「っ…そう、か」
「切れます。けど…」
それを言うならエースと呼ばれているらしい日下部先生もでは…?と目で問う山岡に、日下部はふわりと微笑んで首を振った。
「無理だよ」
「ぇ…?」
「無理だ。ふふ、やっぱりおまえだ」
「あの…ぇ?」
「おまえ、なんだ…」
ゆるりと切なそうに目を細めて、けれども口元には鮮やかな微笑みを浮かべ、日下部がするりと山岡に向かって手を伸ばす。
「あぁ、おまえ、だ」
(山岡にしか出来ない。だからおまえは…。最高の腕を持つ、最高の外科医)
「っ…」
ふわり、と山岡の頬を優しく撫でた日下部が、ヒラリと白衣の裾を揺らした。
「担当を、お願いします」
「ぇ…」
「精密検査と、カンファでの説明、患者へのインフォ、フォローはするから」
「っ、だけどオレは…」
「担当医、執刀医ともに、山岡先生。どうか、引き受けて欲しい」
ぺっこりと、綺麗に腰を折り頭を下げる日下部に、山岡の目はふらりと泳いだ。
「っ、だ、けど…」
困惑した声を漏らす山岡の目は、今現在の自身の体調に、不安しかないと叫んでいる。
「切れる、んだろう?」
ぴしり、と手厳しく問いかけた日下部に、山岡の揺らいでいた目が、ビクリと竦む。
「山岡先生?」
「っ…」
「山岡先生」
「っ、ぁ…。は、ぃ、切れます。出来る」
ぐ、と唇に力を入れ、前髪をパサリと揺らした山岡が、覚悟を決めたように、深く頷いた。
それを見止めた日下部は、鮮やかに美しく微笑んで、「じゃぁ、任せた」と呟きながら、そっとタブレットを山岡の手に戻した。
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