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第395話

「あ~ぁ」 ぐったりと、医局のソファーにだらしなく身体を預けた日下部が、医局の天井を振り仰いで、かったるそうな声を上げていた。 「ちょっ、日下部先生、なにしてんですか?」 仕事はどうした!と胡乱な目を向ける原は、現在たまりにたまったレポートの消化に必死だ。 「ん~?いや、ただな、俺の山岡、やっぱりどうしたって格好いいなぁって思ってね」 「は?」 ノロケなら余所でやれ、と呆れた原の目が、日下部にぐさりと突き刺さる。 「またアンタ…じゃなくって、日下部先生は、何を頭沸いていらっしゃるんですか?」 「あはは、言うねぇ、研修医くん」 「だって…」 「うん。まぁでも、そうかもね。沸いてるのかもね…」 ふらぁっとどこか遠い目をして、クスクスと自嘲的な笑みを浮かべる日下部に、原がギョッとして、椅子ごとぐるりとそちらを振り返った。 「ちょっ、日下部先生、一体どうしたんですかっ?」 「ん~?」 俺様何様の日下部様が…と慌てる原に、日下部はのんびりと微笑んだまま、ずるずるとソファーに深く沈み込んでいった。 「ちょっ、マジで。どうしちゃったんです、日下部先生」 らしくない、と目を見開く原に、日下部は大きく天井を振り仰いだ。 「どうって、さ。山岡泰佳」 「え…?」 「俺の山岡泰佳は、やっぱりとてもすごい、天才外科医だった」 ふふふ、と目を細めて遠いどこかを見るようにぼんやりと呟く日下部に、原はオロオロとしながら困惑の表情を浮かべた。 「は?え?あの、日下部先生?」 「うん?」 「うん?じゃなくて。本当に。おかしいですよ?」 「ん~。まぁねぇ。おかしいよね。あの天才を、『俺の』なんて、我が物顔で手の中に閉じ込めちゃってる俺は」 「は…?」 いやマジで、この人何言ってんの?という表情を隠しもせずに浮かべた原にも構わず、日下部は歌うように流れるように言葉を続けた。 「ふふ、肝門部領域の胆管がん。さらりと切れるなんて言い切っちゃってさ」 「ふぇ?」 「光村先生にも伝えたら、すんなりゴーサインが出て。カンファにかけても、多分みんなオーケーするだろ?」 「はぁ」 なんだか分からないけれど、難しいオペでも必要なのか?と首を傾げる原に、クスッと笑い声を漏らして、日下部がひょいと分厚い本が並んでいる本棚を示した。 「右から3冊目」 「え?あ、はい」 見ろということか、と理解した原が、パッと椅子から立ち上がり、壁際の棚に歩いていく。 日下部が示した冊子を取り出した原は、日下部が口にした単語をたよりに、その病気の解説が書かれているページを見つけ出した。 「っ、え、これって…」 「うん。最高難易度の外科手術が必要ながんだね」 「っ…マジか…。下手したら、生体肝移植並みの技術が必要じゃないっすか?これ…」 「うん。同等かそれ以上だね」 「うわー。うわー」 パラパラと、日下部が示した文献を流し読み始めた原の顔が、ピクピクと引き攣っていた。 「ふふ、だけどそれを、山岡先生は、切れる、ってあっさりと言い切れちゃうんだ」 「どぇ、ひゃぁ、そうなんですか~」 「この間の肝小腸同時移植もそう。あいつなら、あっさりやっちゃう」 「っ、そっかぁ。そっかぁ」 「ど天才なんだよね。こんな高難易度のオペをさ」 「ふぁ~」 そのすごさを理解して感嘆の声を上げる原を見て、日下部がクスッと笑いながら、ひょいっとソファから身体を起こした。 「最高レベルの外科医、だろう?」 「はい。はい」 コクコクと必死で頷く原に、日下部はゆるりと細く目を眇めた。 「最高の医者なんだ。海外から声が掛かるのも納得の」 「っ、日下部、先生…?」 「その医師がさ、必要とされる場所へ、必要とされる腕を持って、さらにその腕に磨きをかけに行ける」 「っ…」 「大多数の幸せのために…その腕が、生きる」 「日下部先生っ…」 何やら嫌な予感を感じた原が、ただ必死に首を左右に振った。 「ふふ。引き際だ」 「っ、日下部先生っ、違う…違いますっ」 きゅぅ、と苦しげに眉を寄せた原が、鮮やかに微笑む日下部に向かって、ブンブンと首を振り回した。 「違わない」 「っ~~!違う…っ」 嫌だ、駄目だ、と叫ぶ原の声も、日下部はふんわりと微笑んで軽くいなした。 「違わない。確かに俺は、山岡に海外へ行く話が来て、山岡が俺を忘れてしまったことが悔しくて、だからまたゼロからでも、俺との未来を取り戻そうって。また俺と共に歩むその道へ、帰ってきてくれって思っていたんだけど…」 「く、さかべ、せんせい…?」 「だけど、それは正しいこと?」 「それはっ、そんなのっ…」 「俺との日々を思い出させることは、あいつにとって…幸福かな」 「っ…」 そんなの当たり前じゃないか、という原の言葉は、すぐに重ねられた日下部の言葉に遮られた。 「だって山岡は、辛いって言ったんだ」 「日下部先生…」 「俺に愛されることが、俺に大切にされることが、苦しいんだって」 「それはっ…だけどっ」 「俺が苦しめてる」 ゆるり、と微笑む日下部に、原は「違う、違う」と必死で首を振った。 「だって山岡は、松島先生に向かっては、自然に笑っていたよ?」 「そんなのっ…」 「記憶を失くしてから、俺には決して向かない笑顔だ」 だろう?と笑う日下部に、原は頷くことは出来なかった。 「だから…」 「日下部先生…」 「だって山岡はさ、俺とのことを思い出さなくても、医者としてぐんぐん高みに昇って行ける」 「っ…」 「むしろ、俺との恋だ愛だがない方が、あいつは迷わず己の腕と患者の命だけを見据えて、真っ直ぐ前へ進んでいけるんだ」 「日下部先生っ…」 「俺を忘れてしまったっていうのは、そういうこと」 「っ、そんなっ、それは…」 「俺との記憶を切り捨てた、っていうのは、そういう、こと」 「違うっ、違いますっ、日下部先生…っ」 違う…と絞り出すように唸る原の言葉に、日下部はゆるりと軽く首を振った。 「山岡は、俺が隣に居なくても、どこまでも格好良く医師の道に立っている」 「っ、日下部先生っ…」 「あいつの暗闇は、輝かしい功績で、どんどん明るくなっていくよ」 「日下部先生ッ…」 「俺が隣に居なくても。掬い上げた患者たちの笑顔と感謝で、あいつの周りにはちゃんと光が溢れるよ」 「違う、違う…っ」 「せっかく忘れているんだ」 「っ…」 「このまま、俺が山岡の手を離してしまうことが、あいつにとっても、誰にとっても、一番いいんじゃないかって」 「っ、ちが、います…っ」 「あいつの中に俺さえいなければ、あいつは何事もなく海外へ行って、何事もなく今以上の知識や技術を身に着けて来られる。病に苦しむ人をこの先もっと掬い上げて、たくさんの患者とそのご家族を、笑顔にしてやれるんだ」 「っ~~!」 「このまま、無理に俺を思い出させようとなんてしないで…あいつの手を離してやることが…。あいつを苦しめてしまうことなく…そして、誰にとっても、一番…」 ふわり、と淡く儚く微笑んだ日下部に、原の「嫌だ、違う、違います!」という悲痛な叫びが響いていた。 「手放そう…」 「日下部先生っ!」 「離れよう…。俺の愛に触れることで、あいつが溺れて自分の行く道を見失ってしまうなら」 「日下部先生っ…」 「俺の愛が向くことで、あいつが1人で立てなくなると怯えて泣くのなら…」 「日下部先生…」 「だって拒まれたんだ。あいつは、俺がいない世界なら、ゆっくり静かに息が出来る。迷わず真っ直ぐその足で歩いて行ける」 「っ…」 「だって惚れてるんだ。あいつが紡ぎ出す、命の鼓動を繋ぐ糸に。輝かしいほどの手腕を発揮し、命を掬い上げるあのオペの技術に。眩しいほどに真っ直ぐ命と向き合う、あの医師の姿に」 「っ、っ…」 「俺が見惚れた天才外科医。俺が愛した俺のヒーロー」 「っ……」 「山岡泰佳の、輝かしい未来と、その歩む道を…。俺は、もう一緒には、歩いて行けない。だから、ここで終わりにしてやるのが、俺の…」 「違うっ、違うっ…」と泣きじゃくる原の言葉は、日下部にはもう届かなかった。

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