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第396話

カタン、と医局のドアを小さく開けて、山岡が入ってきたのは、定時の過ぎた宵のうちだった。 「っぁ…」 そろりと室内に入ってきた山岡は、中にまだ残っていた日下部と原の姿を見つけて、ペコリと頭を下げる。 「お疲れ様です」と囁くように告げられる声と共に、相変わらずの長い前髪が、ばさりと山岡の表情を隠していた。 「ん?あぁ、お疲れ様」 見ていた書類からちらりと顔を上げ、さらりと頷いた日下部が、それだけ言って再び書類に視線を落とす。 「お疲れ様でっす、山岡先生」 あーでもない、こーでもないと、バタバタと文献をひっくり返していた原が、その手を止めて山岡に視線を向けた。 「っ…」 どうも、と頭をますます俯けて、山岡が足早に自分のデスクに向かう。 『はぁっ…』 チラリ、チラリと、その山岡と日下部を見比べた原が、疲れたようにドカリと事務椅子に背中を預けた。 「原先生。邪魔」 「ふぁっ?へっ?」 「じゃ~ま~だ、って言ってるの」 これ、とペンの後ろ側でトンッと文献の一冊を指し示す日下部に、原がハッとして椅子から背中を起こした。 「うわっ、すみませんっ」 うっかり日下部のデスクまで侵出してしまっていた、どっかりと日下部の書類の端に乗っかってしまっている文献を見つけて、原が慌ててそれを回収する。 「まったく、何をそう何冊も文献をひっくり返しているわけ?」 どんな難題に取り組んでいるの、と、原の手元を日下部が覗き込む。 「え?え~?」 うわわわ、と奇妙な声を上げながら、手元のルーズリーフを隠す原に、日下部の胡乱な目が向いた。 「なに?勤勉にレポートでもやっているのかと思えば、全然余所事をしているの?」 「はっ?や、そういうわけではないですけど…」 視線を不自然に彷徨わせ、ふにゃりと眉を下げる原の何が面白かったのか、にぃっ、と人が悪そうに頬を持ち上げた日下部が、ひょいっと原の手を取って、デスクの上からどかしてしまった。 「うわぁっ、ちょっ、横暴ですって」 「ん~?だって、確かに勤務時間は過ぎているけど、医局で、デスクで、何をそんなに真剣に考えているのか、気になるじゃない」 「気にしなくていいですって!」 「気にするよ…って、なにこれ。肝門部胆管がんのアプローチ?」 原がぐるぐると何かを書き留めていたルーズリーフをジロリと見下ろして、日下部の眉がぎゅっと寄った。 「あぁ~っ、だから見られたくなかったんですってば」 「え、なに、きみ、まさかこのオペに参加できるとでも思っているわけ?」 「っ、思ってないです!思ってないですけど…第2助手くらいは?」 「いや、無理」 「じゃぁ器械出し…」 「駄目」 「だったら、だったら、せめて見学なら!」 「……まぁ、それくらいなら、構わないけど…」 助手は俺と光村先生で固めるよ、と言い切る日下部に、原は困ったように苦笑した。 「分かってますって、おれごときに助手が務まるオペじゃないことくらい」 「うん」 「だけどただ、きっと、おれがここで関われる一番大きなオペは、これが最後だと思うので」 それが終わる頃には、きっと新たな科に旅に出る、と言う原に、日下部が目元を緩めながら小さく頷いた。 「だから、まぁ有終の美を飾る、ではないですけど、最後にたっぷりと、見納めさせてもらえたらな~なんて」 おれの憧れの山岡先生のオペ、と笑う原に、日下部はちらりと山岡に目を向けた。 「ふふ、そうだな。山岡先生にとっても、きっとここでする、最後の大一番だからな」 「っ、っ…」 それを成功させ、山岡は海外に旅立っていく、と言う日下部に、原の顔がくしゃりと潰れた。 「山岡先生」 不意に、日下部に呼び掛けられた山岡が、見ていた書類からハッと顔を上げ、そろりと窺うようにデスクの向こうから目を向ける。 「っぁ、なんですか?」 「……いや、例のオペ。カンファ資料、もう揃ってる?」 「あ、はぃ…。ただまだ、精密な検査とか、患者さんへの説明や同意書の準備とか、細々したものはまだですけど…」 「そっか。まぁできるだけでいいんだけど、その資料とか症例論文とか文献、よければこいつにもみせてやって」 「ぁ、はぃ」 構いませんが、と頷く山岡が、ちらりと原に視線を向ける。 「悪いね。こいつ、もうすぐいなくなる…んだけど、覚えてるよな?」 「ぁ、はぃ」 「最後に特大の土産、くれてやって」 「お土産…」 そんなものになるかは分かりませんけど、と微苦笑しながら、山岡がコクリと頷いた。 「ありがとう。…よし、そしたら…山岡先生は、今日はもう帰る?」 「っ、ぁ、あの…」 うーんと伸びをして、書類をまとめた日下部に、山岡がビクッと肩を震わせて、恐る恐るそちらを窺った。 「ん?」 「えっと、あの、オレ…」 「うん」 「今日は…いぇ、今日から、医局に…ぁ、いぇ、仮眠室に、泊まろうと思ってまして…」 オドオドと、窺うように日下部を見上げる山岡に、日下部はふんわりと微笑んで、「そう」と小さく呟いた。 「っ…、ごめんなさ…」 「うん、分かった」 「ぇ…?」 「同居…さ」 「……」 「解消しようか」 「ぇ…。日下部先生?」 きょとりと日下部を見つめた山岡に、日下部はにこりと完璧な笑顔を浮かべて見せた。 「解消しようか。同居も、恋人関係だったってことも」 「く、さかべ、せんせい…?」 「一回リセットして、忘れようか」 にっこりと、清々しいほどに綺麗に笑う日下部に、山岡の顔がずるずると俯いて行き、ばっさりとその顔が前髪に隠れてしまった。 「ただの同僚に戻ろう」 「っ、いいん、ですか…?」 「うん。いいよ」 「だけど、オレ…」 「うん。確かに、俺にとっては、記憶があろうとなかろうと、山岡先生は恋人だ、って思ってたんだけどね」 「っ…」 「もう、いいかな、って」 「ぇ…?」 「だって、山岡先生にとっては、今の俺は、ただの同僚でしかないだろ?」 「っ、それは…」 きゅぅ、と辛そうに眉を歪める山岡に、日下部はにっこりと鮮やかに微笑んだ。 「流石に無理だよな〜。俺のことだけ忘れられてさ、他の男にはニコニコ笑う山岡先生を、変わらず想い続けるのは」 「っ…」 「恋も冷めるってものだろう?少なくとも、俺は駄目だった」 「っ、日下部先生…」 「あっ、でも謝る必要はないからな。忘れてしまったことは、山岡先生が悪いわけでもないし。もう愛し続けられなくなってしまった俺も悪いから」 「日下部先生…」 「だから、いいんだ。もう、終わりにしよう。俺は、山岡先生と、ただの同僚に戻るよ」 「く、さかべ、先生…」 「うん。だから、明日からは、それで、よろしく」 スッ、と差し出される日下部の手を、山岡は困惑したままジッと見つめた。 「消化器外科の医師、日下部千洋です」 「っ、っ…」 「消化器外科の医師、山岡泰佳先生?」 クスッ、と笑った日下部の手を、山岡がそろりと取って、きゅっ、と握られた互いの手の温もりは、たったの一瞬ですぐに離れていった。 「じゃぁ、俺はもう上がるけど。お先に。お疲れ様」 バイバイ、と手を振る日下部が、バサリと白衣を脱ぎ捨てて、医局に残る山岡を、1度も振り返ることなく部屋から出て行った。 「えっ?あ、待って、お、おれもっ…」 お先に失礼します!と慌てて文献を閉じまくり、バタバタと帰り支度を済ませた原が、日下部の後を追うようにして、急いで医局を飛び出して行った。

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