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第398話

翌朝。 「おはよう」 「ぁ、おはようございます」 するりと挨拶を交わし合い、ナースステーション内をすれ違った山岡と日下部に、その場にいた看護師が、ふと何気なくそちらを振り返った。 「あっ、そうだ、山岡先生」 「っ、ぁ、はぃ?」 「この投薬指示書なんだけどさ」 「ぇ?あ、山田先生に、訂正を頼まれていたやつ…」 「あぁ、そうなんだ。だよな。船橋さんの数値見たら…」 「はぃ。すみません、すぐに直しておきますので」 ください、と手を出す山岡に、日下部は「ん…」と言いながらそれを手渡す。 「今日も医局?」 「はぃ」 「じゃぁ、このカルテの整理、頼んでもいい?」 「分かりました」 引き受けます、と俯きながら頷く山岡に、「頼んだ」と言い残して、日下部が手持ちのファイルでトントンと肩を叩きながら、ナースステーションを出て行く。 「っ、はぁ…」 きゅっ、とそれまでそれなりに詰めてしまっていた息を、そっと吐き出しながら、山岡がさっそく投薬指示書を打ち込み直そうと、パソコンに向き直った。 「よかった…」 思わず呟いてしまうのは、昨日の日下部とのやり取りが気になっていたせいだ。 ただの同僚に戻る、と言っても、どういう顔をしていいのかよく分からなかった山岡は、ごくごく自然な日下部に、ほっと力が抜けていた。 (このまま、普通に…) 自然にしていればいい。そう考えた山岡は、カチカチとマウスを操作して、目当ての画面を開く。 「あ、ついでに昨晩の輸液の量は…と」 電子カルテに必要な情報をタタンッと打ち込みながら、山岡は次々と必要事項を処理していった。 その後ろ姿を見つめながら、側に居た数人の看護師たちが顔を見合わせている。 『え?なに?これ、どういうこと?』 『いや、私に聞かれても…。でもこれ』 こそこそ、ヒソヒソ、パソコンの画面に集中している山岡に聞こえないように、看護師たちがその後ろ姿を窺いながら、内緒話を勃発させる。 『なんか、完全に普通の同僚同士の会話、みたいじゃなかった?』 『うんうん、そうだった。そういえば昨日、山岡、当直でもないのに、病棟に泊まったらしいよ?』 『え?じゃぁ、喧嘩?』 『いやでも、山岡の記憶、まだ戻ってないんでしょ?』 『うんうん。相変わらず前髪、スカイテリアってるしね』 え~?と首を捻りながらも、看護師たちはヒソヒソと話を継続する。 『でも、さっきの日下部先生、なんかそっけなかったよね?』 『うん。このところ、同僚として振る舞いながらも、山岡のこと、前みたいにちょこちょこ構っていたのにね…』 『だよね。だけどさっきの態度、まるで完全に割り切ったただの同僚みたいな…』 え、まさか。でもそんなこと…。とざわめく看護師たちが、ジーッと山岡の後ろ姿を見つめたところで。 不意に山岡がパッとパソコンの画面から目を離し、ヒラリと白衣を翻した。 「きゃっ!」「わっ?!」 「ぇ…?」 突然背後で上がった悲鳴に驚いて、山岡が目を丸くする。 「あ、あの、えっと、オレ、なにか…」 オドオドと、前髪で顔を隠してしまいながら俯く山岡に、看護師たちは「えへへ~」と誤魔化し笑いを浮かべていた。 「いいえ~、なにも」 「うふふ、なんでもありませ~ん」 にこぉっと笑いながら首を傾げる看護師たちを、チラリと怪訝に見つめながら、山岡は首を1つひねってから、「そうですか?」と呟く。 「はい。さぁて、仕事、仕事」 「あ、そうだ、山岡先生。先日の深田さん、診断書と保険の申請書、やっぱり2通欲しいって…」 「えっと、深田さん…。あ、はぃ。分かりました、こちらに回してください」 「お願いしま~す」 大丈夫、覚えてる、と自分の脳内を確認しながら、山岡はそこに新たに「深田、診断書2通」と書き込んだ。 そのまま通常業務に移っていった看護師たちの間を抜け、山岡はふらりと病棟の廊下をトイレに向かって歩いていた。 そのときふと、廊下の先に、光村が白衣姿で立っているのを見つけた。 その向こうで、ひらり、と別の方向に立ち去っていく白衣の裾が1つ。 光村の側から離れていく。 (……?) ちょうど壁の影になって見えなかったその人物と、光村はたった今話をしていて別れたところなのだろう。 ゆっくりとこちらを振り返った光村が、ゆったりと歩き出して、思わず立ち止まってしまっていた山岡の姿を見つけて薄く目を細めた。 「あぁ、山岡くん」 どうしたんだい?と緩く首を傾げるその姿が、ゆっくりと近づいてくる。 「ぁ、いぇ…」 たまたまちょっとトイレに、と俯きながら、山岡は小さく首を振った。 「そう…。見た?」 「ぇ…?」 何を?とキョトンとなる山岡に、光村はホッと息を吐き出した。 「聞こえても、ないみたいだね」 「えっと…」 なんだかわからずにオドオドとする山岡に、光村は「なんでもないよ」と微笑んで見せた。 「はぁ…」 「山岡くんは…」 「ぇ?」 「いや…。だけど、はぁっ…」 カシカシと、頭を掻いて困った顔をする光村に、山岡の目が不思議そうに揺れた。 「光村先生…?」 この、大抵はなんでもはっきりとものを言ってくれるはずの光村の、こんな煮え切らない態度は珍しい。 それでも深追いすることなく、黙って光村の様子を窺っているだけの山岡に、光村はフルフルと1つ頭を振って、きっぱりとした視線を向けた。 「山岡くん」 「はぃ…」 「今から少し、時間をもらえるかね?」 「ぇ?ぁ、はぃ」 構いませんけど、と頷く山岡に、光村は薄っすらと目を細めた。 「では…あぁ、先にお手洗いを済ませてからでいいからね。その後で、私の部屋に来てもらえるかい?」 「部長室ですか?」 「そうだ」 「分かりました」 こくりと上下した山岡の頭を見て、光村がタンとスリッパの足音を響かせて歩き出す。 そのゆらりゆらりと揺れて遠ざかっていく白衣の後ろ姿を見送りながら、山岡もまた、のんびりとトイレの方に向かって歩いて行った。

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