399 / 415

第399話

そうして、山岡が手早く生理現象を処理し、部長室にやってきたとき、光村は正面奥の大きな執務机の向こう側の椅子に腰掛け、背中を完全に背もたれに預けて、腕を組んで難しい顔をしていた。 「ぁ、の、光村先生…」 山岡です、と恐る恐る声を掛けた山岡に、ちらりとその視線が向く。 「あぁ、まぁ、こちらにおいで」 ツイ、と目線だけでデスクの側に呼んだ光村に、山岡は軽く一礼して、テクテクと従った。 「ふぅ…」 ぴたり、とデスクの対面に、姿勢よく立った山岡を、椅子に座ったまま光村が見上げる。 ゆっくりと細められていく光村の目に、山岡が居心地悪そうにごそりと身じろいだ。 「やっぱり戻っていないか…」 「光村先生…?」 ばさりと顔の半分ほどを隠す山岡の前髪を見て、光村が寂しそうにぽつりと呟く。 何を言われているのか分からない山岡が、こてりと首を傾げる動作につられて、ぱさっと前髪が横に流れた。 「記憶。きみの中に、日下部くんと過ごした日々は…やはりないのだろうね」 「っ、すみま、せん…」 記憶喪失を責められていると感じた山岡は、反射的に頭を下げていた。 「いや、違う。違うんだよ、責めてるんじゃない」 「でも…」 「あぁ、ただ、日下部くんがね…」 「ぇ…?」 ふわりと切なそうに微笑んで、どこか遠くを見るような目をした光村に、山岡は困惑したままオロオロと視線を彷徨わせた。 「はぁっ。辛い役回りだな」 「み、つむら、先生?」 「だけど、これが彼の望みだというなら、仕方がない」 本当は言いたくないんだけど、と苦笑を浮かべる光村に、山岡はオドオドしたまま小首を傾げた。 「あ、の…」 「ふぅっ、山岡くん」 「ふぇっ、は、はぃ…」 「きみに来ていた海外スカウトの話、なのだが。覚えているかね?」 「海外、スカウト…」 あぁ、と記憶を探るように目線を彷徨わせた山岡が、静かに頷いた。 「っ…きみは、その話を…」 「はぃ、お受けしたい、と思って、います、けど…」 駄目、ですか…?と不安そうに視線を上げた山岡に、光村の目が辛そうに細められた。 「っ、最初に打診したとき、きみは、まだ迷っている素振りで、行く方向にも、残る方向にも気持ちを揺らしていた」 「そう、でしたっけ…?ぇ、なんでだろう…」 迷う理由がないと不思議がる山岡を、光村は祈るような面持ちでジッと見つめた。 「即答を避け、少し時間をくれと、私に求めた」 「はぁ…」 「けれどきみは…」 そもそもの発端がそれだった、と独り言ちながら、光村はきつく眉を寄せ、辛そうに山岡を見つめた。 「っ…未練は、ないかね?」 「ぇ…?未練、ですか」 「そうだ。この国に、この病院に、ここに」 光村の言葉に、う~ん?と思考を巡らせた様子の山岡だけれど、その目が何かを見つけることはなかった。 「山岡さんの…お墓が遠くなってしまうのは、少し、気懸かりですけど…」 それくらいかな、と首を傾げる山岡に、光村は1つ、ぎゅっと目を閉じて、ゆっくり深く肩を上下させた。 「それだけか…」 「ぇっと、そう、ですね…。担当中の患者さんや、治療途中の患者さんは、きちんと引継ぎをしていきたいと思いますし…。気にはなりますけど、ここの先生方に、お任せすれば安心ですから」 「そうか…」 「はぃ」 こっくりと確かに頷く山岡に、光村は深く長く息を吐き出した。 「行くのかね」 「はぃ。行きたいです」 きっぱりと、そう答える山岡に、光村の顔が悲しい泣き笑いを浮かべる。 「行くのかね…」 「はぃ。向こうに行って、たくさんのことを学んで、オレは…」 ゆるりと両手をオペに挑む前のように胸の前に持ち上げて掲げ、きゅっと握りしめた手を見つめて山岡は口元に小さな笑みを湛えた。 「山岡さんとの誓いのためにも」 「誓い?」 「山岡さんとの…約束、です。1人でも多くの、1つでも多くの命を、この手に…」 スッと顔を上げた山岡の目は、一点の迷いもない、確かな意志を宿している。 「そのために、新たな知識と、さらに多くの技術の習得を」 ただそのためにここまでやって来て、ただひたすらにそれを欲する。 山岡汰一の潰えた命に、その手を届かせるために。 「そうかね…。そうかぁ…」 (これは、日下部くん。きみにはあまりに、悲しい結末だよ…) 静かに吐息を吐き出した光村の、その目が深い憂いに陰っていた。 そこから遡ること十数分前。 山岡が、廊下で光村と遭遇する直前の話。 その場所から立ち去って行った白衣姿の持ち主は、日下部だった。 「光村先生、おはようございます」 「あぁ日下部くん、おはよう」 朝、たまたま廊下を歩いていた光村は、ばったり遭遇した日下部の声に、なんとはなしに挨拶を返していた。 「んん~っ、今日も天気がいいねぇ」 呑気に窓の外の陽ざしを眺めながら、薄く目を細めた光村に、日下部はふんわり笑って小首を傾げた。 「そうですね」 ふわりと目を細めて柔らかく微笑む日下部の表情に、光村はぎくり、と警鐘の音を感じて身を強張らせた。 「く、さかべ、くん…?」 どうしたんだね?と問う声は、答えを聞く恐怖に震えていた。 「ふふ、さすがは年の功ですか?察し過ぎですよ、部長」 鋭いなぁ、と笑う日下部の顔は、笑顔だ。 どこまでもどこまでも淡く儚い、綺麗な笑顔。 「っ、日下部くんっ」 駄目だ、と叫ぼうとする光村の声が放たれる前に、日下部の綺麗に微笑んだままの口元が、ゆるりと音を形作った。 「諦めました」 「っ、やめてくれ。聞きたくない。聞きたくないよ、日下部くん」 「すみません。だけど、終わりにしました、山岡先生を、この手に留めておくことは」 「っ~~!聞きたくないと言っているじゃないかっ」 嫌だ、嫌だとまるで駄々っ子のように。 けれども受け止めることが義務であるかのような覚悟を宿した瞳をして、光村は辛そうに顔を歪めたまま日下部を見遣る。 「すみません、光村先生。俺は、あいつの光には、もうなることはないんです」 「日下部くん…」 「だから、もう、あいつのことは、黙って見送ります」 「日下部くんっ…」 「海外スカウトの話。山岡先生に、きちんと答えを聞いてあげてくださいね?」 「っ、日下部くん、それは…」 「今なら、きっと大丈夫だと思いますから。あいつはきっと、素直に行くと言う決断を下すと思います。1も2もなくすんなり頷いてくれます」 きっと迷うこともない。 今ならきっと、混乱に陥ることもない。 ふわりと鮮やかに微笑む日下部に、光村は苦しそうに眉を寄せて、絞り出すように声を押し出した。 「それで、きみは、いいのかね…?」 黙って見送る?大人しく送り出す? あまりにらしくなく、あまりに日下部にとって辛い決断に、光村は日下部を探るように窺った。 けれども日下部の方は、あまりにあっさりしたものだった。 「いいんです」 「日下部くん…」 「いいんですよ、それで。…だってあいつの暗闇は、もう真っ暗闇なんかじゃないんです」 「日下部、くん…」 「俺との記憶はすべて消えてしまいましたけれど、あいつの中には俺と過ごした時間に得た何かが、ちゃんと残っているので」 「っ、だけど、それは…っ」 「はい。記憶の中には残らない、けれど、山岡先生は、無意識下で初対面の他人を、すぐに信じて心を開きました」 「それは、一体…」 「松島雅先生。脳外の医師です。あいつは松島先生が友人だと差し伸ばした手を、拒むことなく恐れることなく、すんなりと取ったんです」 「っ、それは…」 「俺の記憶がない世界でも、あいつはあんな風に笑えるんです」 「それはっ…」 きみのことがあったから、と心の内で叫ぶ光村に、日下部は鮮やかに微笑んで頷いた。 「そう、俺が残した、俺の欠片です」 「日下部くんっ…」 「俺が山岡の暗闇に、小さなメスを切り込んだんです」 「っ、っ…」 満足そうに微笑む日下部の意志が、翻ることのない硬いものだと悟った光村が、泣き出しそうに顔を歪めた。 「俺の山岡に向けてきた時間は、無駄なことは1つもなくて、俺が与えてきた愛の欠片は、ちゃんと山岡の中に残っています」 「っ…」 「十分ですよ。十分なんです、光村先生。俺のつけた小さな切り口が、これから先、あいつの闇を拓いていく」 「それは…」 「あいつの中に、その痕跡がちゃんと残っているから、あいつは俺のつけたその小さなメスの切り口を、そこからゆっくり広げて歩いていける。そうして暗闇にはきっと光が溢れていく」 「そんなこと…」 「新しい技術が増え、新しい知識を得て。新しい環境で、新しい人間関係を築いて。きっと今の山岡は、それを受け入れ、あいつの周りは明るく明るくなっていく」 「っ…」 「あいつの信念、あいつの意志。山岡汰一さんとの固い誓いを、守り抜く力もまたあいつの光になっていく」 「日下部くんっ…」 「俺はその背を押したいんです」 「っ、そんな、それはっ…」 「俺は、その道を応援したいんです」 「日下部くんっ」 「俺が切り込んだ小さな切り口が、あいつの輝かしい未来への導だと、分かったから。そのために俺との時間があって、俺が与えてきた日々は無駄じゃなかったと思えるから」 「っ…」 「送り出しましょう?山岡先生は、こんなところで留まっている医者じゃないんです。多くの命と多くの笑顔を、守り切り拓いていく、あいつはそんな最高の医師だから…」 俺と歩む道はここまでです。そう鮮やかに微笑む日下部に、光村は辛く、苦しそうに顔を歪め、ただただ深く溜息を落とした。 「打診は、する」 きみの望みならね、という光村に、日下部はただ静かに微笑んだ。 「ただし、山岡くんが少しでも迷いを見せたなら。少しでも混乱をきたすような様子が見られたのなら、私は諦めないからね?」 「えぇ」 「いいね?いいね?」 何度もしつこく念を押す光村に、日下部はふわりと微笑んで、コクリと頷き踵を返した。 その翻る白衣の裾を、去っていく後ろ姿を、光村は複雑な表情で見送るしかなかった。

ともだちにシェアしよう!