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第401話
そんな中、ふらりと病院内の廊下を歩いていた山岡は、ふと、自分のIDカードが、VIPエリアへの出入り制限を外されていることを唐突に思い出していた。
「ぁ…。そういえばオレ、VIPの患者さん…」
担当だったっけ、と思い出して、ここ1日2日、上に行っていないことに気が付いた。
「回診…」
全然してない、と青褪めて、慌てて専用エレベーターの方へ向かう。
名札にもなっているIDカードを胸から外し、エレベーター横にある認証機にピッと翳し、作動したエレベーターに乗り込んだ。
「はぁ…」
(情けない…)
自分のことで精一杯で、回診を疎かにするなんて。
(医者失格だ…)
一応、全ての患者を2人かそれ以上の担当体制にしてもらったとはいえ、担当医に名を連ねる自分がそれをもう1人の担当医に丸投げしていいということではないのに。
「えっと、日下部さんの担当医は、日下部先生に入ってもらったんだっけ」
そういえば親子だって言ってたな、と記憶を1つ1つ確認しながら、ポンと音を立てて到着したエレベーターから、目的の階に足を踏み出した山岡は、ふと、その廊下の先に人影があることに気がついて、コテリと首を傾げた。
「あれ…?」
「あぁ、山岡先生、こんにちは」
ははっ、と笑いながら軽く手を上げ、廊下の先を歩いてくる患者に、山岡は慌てて駆け寄った。
「あの…っ、日下部さんっ?どうしてこんなところを出歩いて…」
一応VIP棟だとは言え、この廊下は専用貸し切りと言うわけではない。
もう何部屋かある他のVIPルームに入院加療中の患者の家族や担当医と、偶然鉢合わせてしまう可能性がないわけではないのだ。
「あぁ、いや、そろそろ気分も身体も大分よくなってきたからね、体力回復に向けて、リハビリがてら散歩でもと思ってな」
「っ~~!それは、一応、担当医に相談してください」
勝手に出歩くな、と慌てる山岡に、日下部千里は鷹揚に笑った。
「なに、私の入院はもうとっくに全国に知れているわけだし、今さら部屋から出て誰かに会ってしまったところで、困ることはないだろう。さすがに特別棟を出るつもりはないしな」
だから大丈夫だ、と笑う千里に、山岡はふにゃりと苦笑した。
「それでもです。身を隠すのもそうですけど、万が一転倒や、体調が変化した際に備えて、医師の把握と許可はさせてください」
「ふむ。確かにそれはそうか。では、この廊下くらいは、歩き回らせてもらうぞ」
「事後承諾…」
この人は、と呆れる山岡に、悠然と笑った千里が、「ついでに散歩の続きに付き合ってくれ」と呑気にのたまった。
「分かりました…。でも、病室に戻るだけですよ?」
「あぁ。それで構わん」
くるりと千里に踵を返させて、元来た道を引き返させる。
それでも大分距離のある廊下をテクテクと並んで歩き出しながら、山岡はゆっくりと千里の様子を窺った。
「ん…」
「ん?」
「ぁ、いぇ…。本当に、もう歩行にも危なげがなく…退院が、見えてきましたね」
「そうか。退院か」
それは嬉しい、と笑う千里が、スゥッと薄く目を細めた。
「本当に、きみには世話になったな」
「ぇ…いぇ」
くるりと目を丸くして、その後ふにゃりと微笑んだ山岡の視線が、ストンと足元に落とされた。
「海外に、旅立つそうじゃないか」
「ぇ…?」
「ふはは。腕を見込まれての、引き抜きだとか」
「ぇ、ぁ、その、それは…」
「クスクス、まさかなぁ」
「ぇ?あの、日下部さん…?」
「まさか、今さらになって、こんな形で。きみに、一番最初に私が望んだことが、叶えられるなんて」
運命というのは、どこまで悪戯なんだ、と嘲るような笑みを浮かべる千里に、山岡の目はただ不思議そうに揺れていた。
「千洋も千洋だよ」
「ぇ、あ、の、日下部さん?」
「私にあれだけ盛大な啖呵を切っておいて」
「啖呵…?」
なんのことだろう、と困惑する山岡を、千里はただ、静かな目をして見つめていた。
「何があっても手放さない、か…」
「日下部さん?」
どうしたんだろう?とただただ戸惑う山岡は、日下部を巡ってこの父と一悶着あった過去を忘れている。
「山岡先生、きみは、今、幸せかな?」
「ぇ?ぁ、は、ぃ?」
「千洋の愛し方は、こんなに謙虚なものだったのか」
似合わないな、と笑い声を零す千里に、山岡はただただ戸惑った。
「私はとても口惜しいよ」
「く、さかべ、さん…?」
「けれどもこれが、きみらの出した答えだと言うなら、受け入れるほか仕方がないんだろう」
「ぇ…?あの」
(当事者2人が、こうも綺麗さっぱり重ならない未来を見つめている現状で、周囲が外側から出来ることなど、なにもないんだ…)
ふわりと切なく微笑む千里に、山岡は困惑したままストンと目線を床の先に落とした。
「山岡先生」
「は、はぃ」
「栄転、おめでとう」
「ぇぁ、ありがとうございます」
「何かあったら、私にも言ってくれ」
「ぇ…?」
「援助は惜しまないつもりだよ」
(一度はきみを、息子同然に迎え入れた身だ)
「いぇ、そんな…」
患者様に何かしていただくようなことは、と首を振る山岡を、千里はただただ寂しそうにしんみりと見つめた。
「きみの未来に、幸あらんことを…」
「ありがとうございます」
ふんわりと、額面通りに千里の言葉を受け取った山岡が柔らかく微笑んだところで、ちょうどぴったり、千里の病室にたどり着いていた。
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