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第402話
そんな翌日の昼。
外来上がりで医局に戻ってきた日下部と、午前中いっぱい、医局で仕事を片付けていた山岡が、ふと顔を合わせていた。
「あ、山岡先生、お疲れ」
「ぇ?ぁ、日下部先生、お疲れ様です」
ふにゃりと書類から視線を上げ、聴診器を首から外してポイッとデスクの上に転がしている日下部を見て、山岡がにこりと答えていた。
「ん~っ、やっと昼だ、昼。あ、山岡先生、お昼行く?」
「ぇ…?」
「よかったら一緒に」
どう?と首を傾げる日下部に、山岡はふらりと視線を彷徨わせた挙句、すまなそうに俯いた。
「あの、すみません。先に約束があるので」
「そう」
「はぃ…」
「分かった。じゃぁ1人で行くか」
う~ん、と伸びをしながら、日下部がひらりと白衣の裾を翻して、医局を出て行こうとする。
「あ~っ、日下部先生っ、待って!ちょっと待って!お昼っ、行くんですかっ?おれもっ!おれもご一緒させてください~っ」
「うわっ。なんだきみ、いたの」
唐突に、文献が詰まっている棚の前に、ぴょこんと立ち上がった原が、急いでドサドサと抱えていた文献を自分のデスクに積み上げた。
「いたのって、いましたよ」
「そんなところにしゃがみこんでいたから見えなかった。で…?」
「ですから、お昼。ちょっとこれだけ片づけちゃいますから、おれも連れてってくださいよ」
「はぁ?これだけ、って、まだ何冊も床に散らかっているじゃない…」
何をやってるの、と呆れる日下部に、原がへらりと笑いながら、漁っていたらしい文献を、床から拾い上げている。
「すぐです。すぐ片付きます。だから」
「はぁっ。待てって?やだよ。そもそも、なんで俺がきみとお昼を一緒に食べなきゃならないの」
もう指導医も降りたし?と意地悪く目を細める日下部に、原がむぅ、と頬っぺたを膨らませた。
「別に、同じ医局の医師同士、お昼くらいいいでしょう?」
なんで山岡先生はよくて、おれは駄目なんですか、と不貞腐れる原に、日下部のケラケラとした笑い声が向けられた。
「だってきみの食べっぷり、目の前で見せられるだけで食欲が減退してくるんだもん」
「はぁっ?」
「それに、昼ご飯おごりの約束は、昨日もう果たしただろ」
「それとこれとは別です、それに、今日も奢れなんて別に言ってないでしょう?」
「まぁね。でも、俺はもう行くから。来るんなら好きにしたらいいけど、あまり遅いようじゃ置いて行くからね~」
それ、片付くの?と揶揄うように笑いながら、日下部がプラプラと手を振ってさっさと医局を出て行ってしまう。
「あっ、ちょっ、だから、こんなのすぐですって!すぐ!5秒で!」
だから待って~、と、とにかく床に散らばした文献をざーっと集めてドサッとデスクに乗せた原が、慌ててそんな日下部を追いかけた。
「っ、っ…?」
そんな騒がしく慌ただしいやり取りを、ピクンと固まって見ていた山岡が、目を白黒させながらも、バタンと閉まっていく医局のドアに、ホゥッと力を抜いていた。
「本当、仲いいんだな…」
元指導医と研修医だと聞いていた。
あんなに仲がよさそうなのに、どうしてその関係が解消されてしまったのか、とても不思議だ。
「日下部……っ、ぅ、つぅ…」
(頭、痛い…?)
あの人は、やっぱりみんなが言うように、ずっと前からこの医局に居て…と考え始めたところで、ズキッと頭に感じた刺激に気づき、山岡は慌てて思考を止めた。
「知りたく、ない…。思い出したく…っ」
きゅぅ、と頭を抱えて、ズキン、ズキンと脈動する頭痛が過ぎ去るのを、息をひそめて待つ。
「はっ、はっ、はっ…はぁっ…」
スゥッ、と静かに楽になっていく痛みに、ふらりと持ち上げた目は、直前の思考をすっかりと忘れ去ってしまっていた。
「あれ?えっと…あ、そうだ、お昼」
(今日は松島先生と約束してるんだった)
待ち合わせ時間は…と腕の時計を見下ろしたところで、ふと、それに滲む不可解な景色を見たような気がした。
「ぇ…?」
ぼんやりと時計に重なる、誰かの笑顔。
『なぁ、…がプレゼントしたら、してくれる?』
少しだけ不安そうに窺いながら、けれど期待を十分に込めた優しい声が、不意に耳を掠めていく。
「っ?っ…?」
『…が選んで…が買ったものを、身につけてもらえたら、嬉しいからさ』
(ぇ…?なんだ?この光景…。何?っ、っ…)
さっぱり身に覚えはない。だけどただ、何かがカクンッと頭の片隅に引っ掛かる。
「っ…時、計…?」
これが、なにか。なんだったかな。
ふわり、と滲んだ景色はそのまま、ふわり、と泡沫のように消えていく。
山岡の視界に残ったのは、正午をすでに何分も回ってしまった位置を示す、時計の針と数字だけ。
「っ、ぁ、まずい、約束…っ」
時間、過ぎてる、と焦った山岡は、パッと時計から視線を逸らし、慌てて椅子から立ち上がった。
ひらりと白衣の裾を翻し、医局を出て食堂に向かう山岡の意識から、完全に時計の存在は吹き飛ばされてしまった。
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