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第404話

「っ、日下部先生っ、あれ!」 ざわっ、と突然騒めいた食堂内の気配には気づいていた。 ハッとしたように大きく目を見開き、自分の背後を凝視する原の姿も、日下部は分かっていた。 慌てたように叫ぶ原の声。それにも日下部は、ただのんびりと、ゆっくり首を巡らせるだけで。 「っ、山岡…?」 なにやらざわつくエリアの様子を窺ってみれば、頭を抱えるように悶える山岡の姿と、慌てて立ち上がる松島の姿が見えた。 「日下部先生っ。山岡先生、頭痛、起こしたみたいで…」 「っ、あ、あぁ、そうだな」 「え?ちょっ、そうだなって…」 チラリ、と山岡たちの様子を見ただけで、何かアクションを起こす様子もなく、静かに頷くだけの日下部に、原の方が焦ってガタンと椅子を蹴倒し立ち上がった。 「駆けつけなくていいんですかっ?」 「何故」 「何故って…」 「だって、頭痛の様子なんだろ?目の前には脳外科医」 「っ…」 「わざわざこんな離れたところから、ましてや消化器外科医が、行く必要あるか?お呼びでないだろ。十分対処できる」 「だけど…っ」 再びチラリと日下部が山岡たちの方に視線を向ければ、松島の胸に頭を預け、クッタリと脱力していく山岡の姿が見える。 「ッ…」 「く、さかべ、先生…」 「っ、ほ、ら…。人手も、呼んでいるみたいだし…。大丈夫さ。専門医に任せておけばいい。専門医、なんだから…」 (っ、アンタはっ…!今、自分がどんな顔をしているのか、分かっているんですかねっ?) 眉間に皺が寄るのを堪えるようにピクリと額を歪ませ、ズタズタに傷ついた目をしながら、それでも平静を装う日下部に、原の顔の方がくしゃくしゃに歪む。 「行、けば、いいんですっ…。行ったらいい。行って、くださ…」 (そんな言い訳みたいな理由を、言い聞かせるみたいに繰り返していないで…っ) 「原?」 「っ~~!」 (ア、ンタ、は…っ!「何を言ってるんだ?」は、おれじゃなくて、アンタの方っ…) その日下部の表情に、原は悔しくて苛立たしくて、渦巻く憤りをどうにも処理できない。 「っ、クソッ!」 (どうして…っ) 勢いのまま、ガンッとテーブルを叩きつけた原の仕草につられて、がしゃん、とその上に乗った日下部と原のトレイが音を立てた。 「おい、原」 呆れながら、咎めるように見上げてくる日下部の顔が、腹立たしくて仕方がない。 だけどその向こうで、松島に身を預け、安心したように瞳を閉じた山岡の姿が、もっともっと腹立たしくてたまらなかった。 「っ、っ、どうしてっ?だって、行ったら、いいっ…」 「原」 「だってっ、医者ですっ。だからっ、体調を崩した様子の人が見えたらっ、駆けつけるのは普通で…っ」 「……」 「ましてや、同じ科の医師ですよ?なら、心配して駆けつけたって…」 あって普通だ、と言い募る原に、日下部はただ小さく首を左右に振って、にこりと微笑んだ。 「松島先生が対処してくれる」 「日下部先生っ!」 「預けておけばいい」 「日下部、先生…っ」 「俺が行く必要はない。いやむしろ、近づいたらいけないんだ。俺が近くに行ったら、山岡は余計に…」 (あなたの記憶は、山岡先生の中から頑なに拒まれている…) そう告げられたあの日の言葉が、日下部の頭の中に蘇る。 「っ、日下部、先生…」 「ふっ、さぁ、この話はお終い。向こうは向こうで対処してくれる。俺たちは、ほら、昼食の続きだ。残り時間も少ないぞ?午後から2件、オペだろ?早く食べちゃわないと」 パンッ、と手を打った日下部が、「座れよ」とまだ立ち上がったままだった原を椅子に促し、食事を再開する。 「っ…」 あまりに吹っ切れたように、あっけらかんと箸を動かす日下部に、ガタンッと椅子にへたり込んだ原の視線の先で、山岡が松島に頼りながら、食堂を後にしていた。      * 「っ~~!見た?聞いた?今日の昼!食堂事件!」 ぎゃぁ、と悲鳴が上がるナースステーション内では、看護師たちが顔を寄せ合って、ざわつく噂話をさっそく始めていた。           「私見た!その場にいた!やっぱり、山岡と日下部先生たち、別々に食べてるな~なんて悲しく見てたらさ…」 「うんうん。山岡、なんかいきなり苦しみ出して、それをなんと、脳外の雅先生がさぁ」 「やっばかったよね?抱き締めて、よしよしって」 「そうっ!しかも山岡も、ホッとしたように身体預けちゃってさ!」 いやぁっ、と悶絶する看護師たちの話は、どんどん熱を帯びていく。 「なんでっ?どうして?ここへ来て、なんで突然松島雅?」 「マジで。ありえない。夢であって欲しい。日下部先生が身を引いて、山岡がもう別の男とイチャイチャなんて。冗談じゃない」 ない。いやだ。ありえない。と全否定を決め込む看護師たちの目が、じわり、じわりと据わっていく。 「もうっ、私、我慢の限界なんだけどっ」 「うんうん、私もっ。日下部先生の尻を叩きに行かなきゃ気が済まない!」 「だよねっ?こんなまま引き下がる日下部先生じゃないよね…」 「うん。そして山岡は1発殴ってやりたい」 「うんうん。あんたたち、こうじゃない、って」 ムキーッとむきになる看護師たちの意志が、一致団結していく。 「もう本当に見てられないもん…」 「うん。こんなの、ないよね。やっぱり、違う」 しんみりと、沈んでいく看護師たちの空気は、上がったり落ちたりと忙しい。 「2人が納得済みだって、誰が諦めたって、やっぱり私たちは、諦めきれないよ…」 「このまま2人が別の道を行って…離れ離れになるなんて…」 「いやぁっ!私、信じてたんだけどな。2人の絆…。2人の寄り添う姿を見ると、幸せだと、感じる、のに…」 「うん」 「はぁっ…」と何重にもかさなって落とされる溜息が、深い多重奏を紡ぎ出す。 「く~さ~か~べ~」 「や~ま~お~か~」 ジトーッと、恨みがましく地を這う重低音が、深い溜息に重なって、看護師の口から呪いのように漏れていた。

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