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第405話

その、噂の日下部は、午後、原を連れて、テキパキと2件のオペをこなしていた。 もう片方の山岡はというと、あのまま食堂から松島に連れ出され、念のためと、脳外で診察と休息を取らされていた。 「ふぅ、3時間、ジャスト」 「お疲れ様です」 「うん、お疲れ。助手ありがと」 ばさりと、手術ガウンを脱ぎ捨てて、ポイポイと帽子とマスクを取り去った日下部が、原を振り返って、にっこりと微笑んだ。 「っ、いえ…」 「山田先生も。前立ちお疲れ様」 原の指導もしながらだと消耗するでしょ、と笑う日下部に、新人の山田は恐縮したように首を振った。 「いえ…。研修医にしては…さすがですよ。元は日下部先生の指導の下にいただけはありますね。うかうかしていると、おれのほうが抜かれてしまいそうなくらい」 「ふふ、そ?」 社交辞令か本心か、山田の言葉を適当に受け流した日下部は、「じゃぁ」と手を振って、そのまま手術室棟を出て、テクテクと病棟へ向かうエレベーターの方へ歩き出す。 「っ、山田先生、お疲れ様ですっ。ちょっと日下部先生、待って下さいっ」 さっさと1人で歩き出してしまった日下部を見て、原が山田に頭を下げながら、慌ててその後を追っていた。 「ん?何?…ってきみ、俺はもうきみの指導医じゃないんだから、なんでそう付きまとうわけ?」 「いけませんか?」 「いけませんかって…。さすがに、鬱陶しい」 「うわ。ひでぇ。ってまぁ日下部先生はそういう人ですけど~。別に、おれがついて歩きたいんだから、ついてあるいてもいいでしょう?」 「やだ。きみ、俺に切られたこと、忘れてない?」 「忘れてませんよ。しっかり突き刺さってます。だけど、それとこれとは、もう別っていうか…」 もごもごと、歯切れ悪く言い淀む原を、日下部は悪戯な目で見返していた。 「何。まさか俺が山岡先生と別れたから、もう一回俺に、って、リトライする気になっちゃった?」 「はぁっ?いや、おれはアンタにはとっくに振られてますし…ンなわけないでしょう?」 「クスクス、あぁそうだった。その後きみは、山岡先生に乗り換えたんだっけ?」 そんな話もあったよね〜と揶揄うように笑う日下部に、この元オーベンは!と呆れ返った目を原は向けた。 「何?」 「っ…」 (だったら、だったらおれが、山岡先生に再アタックしますよ?って言ったら、あなたはどうしますか?…な~んてね、言えないよなぁ。言えるわけがない…) 日下部に今そう聞けば、サラリと「別にいいんじゃない?」と言うに決まっている。 全然本心じゃない、そんな言葉を、原は元オーベンに言わせたいわけではないのだ。 (本当は、誰にも渡したくないくせに…。誰にも取られたくないくせに。どうして、アンタは…) 何もかも諦めたように笑う日下部が痛々しかった。まるでそれこそが、自分の幸福だと自らに刷り込むように振る舞う日下部に、原は口惜しい思いを腹の奥に飲み込む。 そうしてちょうど目の前にたどり着いたエレベーターのボタンを、ぽちりと押した。 「あ、ちょうどいた…」 その途端、ガーッと両側に開いたエレベーターに、グッドタイミング、なんてガッツポーズを決めながら、日下部を促して乗り込む。 「クスクス、きみにエスコートされるって、気持ち悪いね」 「はぁっ?ったく、言っててください」 このクソ元オーベン、と舌を出す原に、日下部はクスクスと笑っていた。 そうして、2人の目的の階にエレベーターが到着し、スゥッと扉が両側に開いていった途端。 「ち~ぃ~っ!おった!」 ダダダダーッとものすごい勢いで、ホールの先の廊下から、日下部を見つけたらしい谷野が突進してきた。 「は?とら?」 なんでここに、と怪訝な顔を隠しもせずに、とりあえず日下部が、エレベーターから降りる。 「わ、とら先生、こんにちは~」 数日振りです、と笑う原がひょっこりとエレベーターから出てきて、谷野がぎょっとして一瞬身を引いた。 「なんや、原センセもおったんか」 「いましたよ~」 「そか。あ~、その、なんや、突然すまん。けど、ちぃ。ちょっと時間くれへん?」 原の登場に、すっかり勢いを削がれた谷野だが、すぐにチラリと日下部に視線を戻し、ギロリときつい眼光を光らせる。 「時間?まぁいいけど…。俺、オペ上がりで汗臭いぞ?」 「かまへん」 「そ…。じゃぁ、とりあえず、医局にでも来るか?」 「ええんなら、お邪魔さしてもらうわ」 ぴりり、と張り詰める谷野の空気に気づきながら、日下部もまた、ぐっと腹に力を入れていた。 そんな2人の様子をキョロキョロと眺めながら、原はそぉっとその場から息をひそめて気配を消していた。 「っ、で?」 どさり、と医局のソファーに我が物顔で腰を下ろした途端、谷野がギリリと日下部を睨み据えた。 「で、って…。そもそもとら、どうしてまたここに?」 もううちの医者じゃないだろ、と言う日下部に、谷野はジロッと目を据わらせて日下部を見た。 「どうしてもなにもないやん。ただ、学会終わって、ちょこっと時間出来たから、ちぃらと夕食でもどうかと思ってここ寄らせてもらってん…」 「夕食?おまえ、打ち上げの会食とかは?」 「そんなん、昨日終わっとるわ。今日は最終日やし、地方から来とる先生は早めに上がるし、今夜はなんもない」 「あぁ、そうか。まぁそうだな。今日までだったのか」 「せや。そして、おれが帰るんは、明日になってもかまへんから、せっかくこっちまで来たし、ちぃらと食事でもしたろ思ってきてみれば…」 ジロリ、と再び日下部を睨み上げる谷野に、日下部はその口が言いたいことを察して、へにゃりと苦笑した。 「山岡と俺のことを聞いたのか」 「分かっとるんやな」 「まぁ、とらが知ったとしたら、文句も苦情も垂れ流すだろうな~ってくらいは?」 「っ!ちぃ、ふざけとんなや」 バシンッとソファの座面をぶっ叩いて、谷野がギリッと奥歯を軋ませた。 「ははっ、別に、ふざけているつもりはないけれど」 「その飄々とした態度がすでにふざけとんねん」 「じゃぁ、真面目に語ればいい?俺は山岡と別れました、って」 お手上げ、と両手を持ち上げ、ひょいっと肩を竦めた日下部に、谷野の怒りはますますヒートアップした。 「せやからっ…」 「うん」 「っ、なんや、ねん…」 「うん、ごめん」 「っ~~!何を、謝っとんねん…。ちゃうやろ。ちゃうやん…」 怒れる谷野の熱を、少しもまともに取り合おうとしない日下部の目の奥に、怯えと悲しみと切なさの色を見つけてしまった谷野は、直前までの勢いを失くして、ずぶりとソファーに身を沈めた。 「ちゃうやん…」 「うん、ごめん…」 はは、と力なく笑う日下部に、谷野は泣きそうな、それでいて消えない怒りを宿した複雑な目を、ゆるりと持ち上げた。 「なんでやねん」 「うん、まぁ、ね」 「なんでやねん!ちぃは、山岡センセの記憶がなくなったって、また1からやり直すて。山岡センセの中にある光は、やっぱりちぃやなきゃいややからって…。刻み込み直すって、言うてたやないか…」 「うん」 そうだね、と微笑む日下部に、翻ることのない諦めの意志を見てしまった谷野は、悔しそうに唇を噛み締めて、ぎゅぅっと拳を震えるほど握り締めた。 「なんでやねんっ!なんで、おれがちょいと学会に行っとる間に…。なんでっ、ちぃとあの山岡センセが、終わりになってしまっとるねんっ…」 納得いかん、と叫びながら、ダンダンッと床を踏み鳴らす谷野を、日下部はただ静かに、凪いだ目で見下ろしていた。

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