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第406話

「説明せぇ」 「ん~?」 「説明せぇや。ちぃが、おれが納得できる答え聞かせてくれるまで、逃がさへんから」 ぎりぎりと日下部を睨み据えて、谷野が日下部のものであろう事務椅子に顎をしゃくった。 「とりあえず座りぃ」 「クスクス、とらが納得するまでって…。何これ、尋問?」 いつ転職したの、と笑う日下部にも、谷野はただ黙ったまま、ジッと日下部を睨みつけていた。 「ふぅん?まぁいいけど」 仕方ない、と肩を竦めて、テクテクと自分の事務椅子を取りに行った日下部が、それを転がしてきて、ストンと腰を下ろす。 「これでいい?」 「あぁ。そんでちぃ、おれの目を、真っ直ぐ見ぃや」 「こう?」 「真っ直ぐ見て、答えぇ」 ジーッと、どんな嘘も誤魔化しも許さないといったように、日下部の目を真っ直ぐに見据えて、谷野がその口をゆるりと開いた。 「ちぃ」 「ん…」 「言ったやんな?山岡センセの光はちいだけやって。ちぃがおらんくなったら、山岡センセは真っ暗闇に落とされるって」 「うん」 「落とすんか」 ギッと睨みつける谷野の視線を真っ直ぐに受け止め、日下部はただ穏やかに、ゆるりと淡く微笑んだ。 「落とすんか!」 ぎゃんっと怒鳴りつける谷野にも、日下部の鮮やかな笑顔は崩れない。 崩さないまま、日下部はただ、歌うように流れるように言葉を紡ぎ出した。 「いいや?」 「ちぃ!」 「いいや?落ちないよ。落とさないよ。山岡は、俺がいなくなった世界でも、ちゃんと光を見つけたよ…?」 だから、手放した。 鮮やかな笑顔の奥に、噴き出る日下部の絶望を見て、谷野はハッと目を瞠った。 「俺を忘れてしまった世界は、山岡にとって暗闇じゃないんだ」 「それは…」 「俺を忘れてしまったことで、山岡は山岡の1番大切な場所を守れたんだ」 「っ…ちぃ」 「俺を覚えたまま、遠く離れる選択は、山岡にとってどうしようもなく恐ろしい闇かもしれなかったけれど。俺を忘れてしまったことで、山岡は闇に転がり落ちることを回避した」 「だからそれは…っ」 「それがっ!…それが、山岡が山岡の心を守る方法だったというなら…っ」 「ちぃっ!」 「それでっ、山岡がもう迫りくる闇に怯えなくていい、なんの心配も苦しみもない中で、己の信念に向かって歩いて行けるならっ…」 「ちぃっ…」 「俺は、それでいいんだ。無理やり思い出させるようなことをしないで、無理やりもう1度、俺と共に行く道に引きずり戻すことなんてしないで」 「ちぃ…っ」 違う、違う!と首を振る谷野を見ながら、日下部はそれでも鮮やかに微笑んでいた。 「俺が引く。俺の消えた世界で笑う山岡を見て、俺は知ったよ。分かったよ」 「ちぃ…っ」 「これがベストだ。これが幸福だ。俺は、山岡の…その手を…」 きゅっと拳を握り締め、それをパッと開く仕草をして微笑んだ日下部の目は、凪いで静かに谷野を見つめた。 「っ…無駄なんか…」 「ごめんな?」 「おれの声も、もう届かへんのか」 「ごめんな」 「闇に落ちたんは、ちぃの方やったんか?そんな絶望した顔をしよって…。間違いが、分からんと?」 ちゃうやん、悔しいやん、と喚き立てる谷野にも、日下部は静かに微笑んでいた。 「ベストやと…?ほんまにそれが、ベストやと思っとるんかっ」 「うん」 「こんなんっ…」 (じゃぁもしもっ、もしもこのまま山岡センセを海外に行かせて…もしもそこで、向こうで、ひょんなことで山岡センセの記憶が戻ったら、どうするん…) 「とら?」 (いくら解離性障害が、それを克服した瞬間に、今度は逆に発症から克服までの間の記憶を失くしてしまうことが大半だっちゅ~ても…) 「分かってへん…」 「とら?」 「ちぃは、なんも分かってへん。自分の辛さに目が曇ってっ…そんときこそ、どんだけ山岡センセが絶望するんか。それこそどん底闇に落ちてしまうんか…なんも想像できてないやんっ」 「と、ら…?」 どうしたの?と首を傾げる日下部を、谷野はギリリと睨みつけた。 「ちぃがおらんくなった世界でも、山岡センセが光を見い出せるやて?」 「うん、現に今、松島先生と…」 「ハン。んなこと、許さへん…」 「とら?」 「許さへんよ、おれは」 (それは、互いに互いを傷つけ合うだけの選択や…) 「おい、とらっ…」 (ちぃが山岡センセを裏切っているようで、ホンマは裏切られてんのはちぃやんな…) 「とらっ…?」 (闇に落としたくないからと諦めるちぃが、逆に闇ん中にゴロゴロ転がり落ちてんねんっ!それを…いつかもしも記憶が戻った時に山岡センセが知ってしまったら…っ) 「と、ら…?」 「待ち受けてんのは、2人の、途方もない真っ暗闇やろ…。冗談じゃあらへんで」 キッ、ときつい目をして顔を上げた谷野に、日下部は訳が分からずコテリと首を傾げる。 「荒療治だろうがなんだろうが構へん…」 「おいとらっ…?」 「ちぃも山岡センセも、ちょっと首洗って待っとけや!」 「はぁっ?ちょっ、とら…?」 ビシッと日下部に向かって人差し指を突き付けて、ガバッとソファから立ち上がった谷野が、その勢いのまま医局を駆け出していく。 「はぁぁぁっ?」 その様子を、驚いたように見送ってしまったまま、日下部が「なんなんだ、とらは…」と首を捻って肩を竦めて素っ頓狂な声を上げていた。

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