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第407話
そうして消化器外科医局を飛び出した谷野は、バタバタと、病院内の廊下を山岡を探して駆け回っていた。
「っあ~、おった。山岡センセ」
バタバタと駆けていた足をキキーッと急ブレーキで止め、ふらりと別の階の廊下を歩いていた山岡を、ようやく捕捉する。
「ぇ…?ぁ、谷野先生。どうされたんですか?」
またこちらに…と首を傾げる山岡の顔には、相変わらずばっさりと表情を隠してしまう長い前髪が落ちる。
「キョトンやないねん。ちょっと顔貸しや」
どこの悪徳業者か、その筋のお方か。とても医師には見えない柄の悪さを発揮した谷野が、山岡の白衣の胸倉を掴み上げる勢いでズイッと顔を寄せた。
「ぇ…あの…」
オレ、病棟に戻…と困惑の表情を浮かべた山岡の顎を、谷野がクイッと持ち上げる。
「ハァン?そんなん、おれとの話が済んでからや」
ギロリ、と流し目を送られて、山岡はただオロオロと困惑した。
「ぁ、ぅ、でも、そのオレ…さっきまで脳外で休ませてもらってて、仕事、かなりサボってしまっているので…」
「ええねん。ええから黙ってついて来ぃ」
ふんっ、と鼻息も荒く、ジタバタと抵抗する山岡を一刀両断にする谷野に、なおも抵抗できるほど、山岡は強かではなかった。
「っ…」
そんな風に強気に出られて、反抗も逃走ももうできない。
クイッと廊下の先に顎をしゃくって歩き出す谷野に、山岡はオドオドしたままついていった。
「っ~~!」
ダンッ!
トテトテと、谷野に従いついてきた人気のないどこぞの廊下の一角で、山岡は、突然立ち止まった谷野に、壁に向かって押し付けられていた。
「ぁ、の、谷野、せんせい…?」
びくり、と身を竦ませて、オドオドと視線を持ち上げた山岡の目の前には、吐息が掛かりそうな至近距離で、谷野の顔がある。
山岡の両耳の横には、山岡を囲い込むように谷野の両手がつかれていて、山岡は逃げることも出来ずに、ただきゅぅっと身を縮めた。
「山岡センセ」
「は、はぃ…」
不意に呼びかけられ、山岡がビクリと肩を跳ね上げながら、そろりと谷野を上目遣いで見上げる。
その怯えた仕草に薄く目を細めながら、谷野は威圧感たっぷりに、腕の間で縮こまる山岡を、ギロリと鋭く見下ろした。
「好きや」
「ぇ…?は?」
「好きやねん。おれと、付き合ってください」
ペタリと、壁についていた手をぎゅぅと握り締め、谷野ががくりと頭を下げた。
「ぇ?ぇ…?あの、その、ぇ…?」
突然の谷野の告白に、まったく状況についていけていない山岡が、目を白黒させて戸惑っている。
「駄目か?」
「ぇ…あの、その…」
「それとも今、好きな人でもおるんか?」
どうや?と前髪で見えにくい山岡の目を覗き込んで、谷野が探るように問いかけた。
「好きな、人…」
「せや。それとか、付き合うてる人」
「ぁ…特には、いませんけど…」
ケロリ、と、なんの逡巡もなしに答えた山岡に、谷野の眉がくしゃりと歪む。
「おらんのか?」
「ぇ…?ぁ、はぃ…」
「おらん、のかっ…」
「あの、谷野先生?」
ぐぐっと奥歯を噛み締めて、湧き上がる激情を堪えた谷野は、ズイッとますます山岡に顔を近づけた。
「なら、おれと付き合うてや」
「ぃや、あの、それは…」
「ええやろ?好きな人も、付き合うている人もおらんのやったら、ええやん」
「いぇ、あの…」
「おれ、恋人には優しゅうするし、尽くすタイプやで?」
「ぁの、その…」
オロオロと戸惑う山岡に、谷野は間髪入れずにグイグイと迫った。
「とりあえず、お試しでも構へんから」
「ぃゃ、でも、その…っ」
なっ?と言いながら、谷野はズイッと顔を寄せた。
「っ…!」
ぐい、と顎を取られ、谷野の唇が山岡の唇に触れるギリギリまで近づけられる。
「ぃ、や…っ」
駄目だ、と必死で顔を背けた山岡が、ぎゅぅっと固く目を閉じて、ブルブルと身体を震わせていた。
「……」
「……」
「…なんでやねん」
「っぇ…?」
「なんで拒むん?」
するり、と山岡の顔から手を離し、壁からもスッと手を引いた谷野が、期待と希望を込めながら、身を竦める山岡を見つめた。
「ぇ…ぁ、の、谷野先生…?」
そろり、と目を開き、オドオドとそんな谷野を窺う山岡を、谷野はジーッと真剣に見つめた。
「なんでおれとのキスを拒んだんや。好きな人、おらんのやろ?」
「っ、そう、ですけど…」
「それとも誰かの顔でも浮かんだんかいな」
「ぇ…?」
谷野の言葉に、キョトンと目を丸くした山岡に、谷野の顔がぐしゃっと潰れた。
「ちゃうんか!」
「ぇ?あの、谷野せんせ…」
ぎゃんっ、とついに激情を露わにして、迫る谷野に、山岡はオロオロと困って俯いた。
「じゃぁなんでおれとのキスを拒んだんやっ」
「ぇ…?ぁ、だって、その、オレと谷野先生は…まだ、そういう関係では、ない、ですから…」
「はぁん?」
「お気持ちは…その、嬉しいんですけど…。オレ、お試しとか、そういうの、ちょっと、出来る、自信が、ない、ので…」
「はぁぁぁっ?」
「その、半端な、関係で、その、キ、キス、とか…っ。で、で、出来ませんっ、から…」
あせあせ、わたわたと悶えながら、カァッと顔を真っ赤にして言い切った山岡に、谷野の目がギロリと向けられた。
「それだけか」
「ぇ…?」
「おれにキスされそうになって、焦ったんは、それだけが理由か」
どうなんや?と目を据わらせる谷野に、山岡はオロオロと戸惑ったまま、困ったように俯いた。
「ぇっと、他に、理由と言われても…」
思いつかない、と呟く山岡に谷野の顔がくしゃりと潰れた。
「っ~~!なんでやねんっ!」
「ぇ…?」
「なんでやねんなっ。日下部千洋やないんか?」
「ぇ?」
「日下部千洋の顔がちらついたからっ、だから拒んだんやないんかっ?おれじゃ嫌やからや、ないん、かっ…」
ダンッ、と再び山岡の顔のすぐ横に、今度は拳を振り上げた谷野が、ヒュッと山岡の耳を掠めて壁にその拳を打ち付けた。
「っ…」
「ちぃじゃなきゃ…ちぃやないと嫌やからっ。ちぃの顔が過ったからっ…。ちぃを裏切れないからや、ないんかっ…」
「ち、ぃ…?」
こてり、と首を傾げる山岡に、どうして、と声を震わせる谷野が、ズルズルと壁の拳を滑らせた。
「なんで…っ」
「谷野先生…?」
「なんでや…っ」
「ぁの…」
「っ、思い出しぃ!山岡センセが好きなんも、愛してるんも、ちゅうしたいんもっ…」
「っ…」
「日下部千洋やろっ?」
「っ、っ…?」
「日下部、千洋やろ…っ」
ガシッととうとう山岡の白衣の胸元を掴み上げ、ガクガクと前後に揺さぶる谷野に、山岡はただ怯えたように唇を震わせた。
「っ~~!とらっ!」
バタバタと、廊下の先から、日下部が駆けてくる。
「うわぁ、とら先生。暴走しすぎですって…」
げっ、と潰れた悲鳴を上げながら、原がその後ろから走ってきた。
「やめろって!とら!離せっ」
ガクガクと、谷野に揺さぶられるまま身を任せていた山岡の、くしゃくしゃに皺の寄った白衣から谷野の手を剥がす。
「ぁ、その…」
「うん。ごめんな。うちの従兄弟が、迷惑かけて」
「ぁ…ぃぇ…」
「とらっ!滅茶苦茶にもほどがある!」
ベリッと剥がした谷野の手をバシンと叩きながら、日下部がキリキリと眉を吊り上げた。
「ハッ、せやけど、こうでもせんと、山岡センセは、目ぇ覚まさないやろ…?」
「覚ます必要なんてないんだっ!こんな荒療治っ…」
「分かっとるわ。手荒なことしてんのは、重々承知や。せやけどっ、それでも…っ」
「とら!」
ドカン、と特大の雷を落として怒鳴る日下部を、谷野は自嘲的な笑みを浮かべながら、緩慢に見上げた。
「ちぃは、どうやねん…」
「はぁっ?」
「妬いたか?」
「おまえ、何言って…」
「妬いたんか?って聞いとるねん。おれが山岡センセに迫って、唇奪おうとして」
「とら…」
「向こうから見えて…。せやから、止めに来たんやろ?山岡センセ、取られとぉないって…。せやから、おれに、腹を立て…たんや、ない…か」
ははっ、と力なく苦笑に変わっていく谷野の声が、寂しそうに尻すぼみになっていった。
「ホンマに駄目なん…?」
「……」
「ちぃと山岡センセ、ホンマにもう、駄目なん、か…?」
ごめんな、と微苦笑を浮かべて謝っている日下部に、山岡もフルフルと首を振りながら「ぃぇ…」なんて遠慮がちにその謝罪を受け入れている。
その距離感は違わずただの同僚としてのもので、谷野の顔がクシャクシャに歪む。
「いやや」
「とら!ほら、行くぞ」
「嫌や~っ」
「山岡先生、本当にごめんな。こいつにもうこんな真似させないから」
「ぃぇ…」
へにゃりと穏やかに笑う山岡に、ペコリと頭を下げながら、日下部がズルズルと谷野を引きずってその場を去っていく。
「嫌やっ。嫌や。離してぇやっ。ちゃうやん、嫌やん。こんなん、あんまりやねん~~っ」
ぎゃぁっ、と喚きながら、日下部に引きずられていく谷野の悲鳴が、ゆっくり静かに遠ざかっていった。
(あぁ、心中ご察しします、とら先生…)
全てを見ていた原が、くぅっと眉間を押さえながら、ぐぐっと俯いていた。
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