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第408話

翌日。 嫌だ、まだこちらに居残る、と盛大な駄々を捏ねる谷野を、どうにかこうにか関西の病院に送り返し、日下部は普段より少し遅れて病院に出勤してきていた。 当然のように、昨晩も当直室に泊まったらしい山岡は、すでに白衣姿で医局にいる。 早々と仕事を開始しているらしい山岡の姿を見つけ、日下部もゆったりと自席に足を進めた。 「おはよう」 「ぁ、おはようございます、日下部先生」 「んっ。山岡先生はもう仕事してるの?」 早いね、と笑う日下部に、山岡はもそりと俯きながら、こっくりと頷いた。 「他の先生は…まだ出勤前?」 それは遅いな、と苦笑しながら、ちらりと室内入り口付近に備え付けられている医師のスケジュールボードに目を向ける。 「原すら来てないし…」 あの研修医、と胡乱な目をする日下部に、山岡が苦笑しながら、あっ、と何かに気づいたように、パソコンの画面から顔を上げた。 「ん?」 「ぁ、日下部先生、外来前に少しいいですか?」 チラリと、日下部が目を向けたスケジュールボードで、日下部の午前担当箇所を目に止めた山岡が、「これなんですけど…」とマウスを操作してパソコン画面に1枚の書類を表示させる。 「うん?いいよ?どうした?」 「これ、日下部さんの退院療養計画書なんですけど」 「あぁ。あの人、もうそうか。そろそろ退院か」 「はぃ。今週末か、来週頭辺りでどうかなと考えているんですけど」 「うん」 そうだね…と頷きながら、日下部が日下部千里の現状と様々な検査の数値を頭に描いた。 「日下部さん、もうすっかりお元気で、すでに退院後すぐに仕事にバリバリ復帰する気でいらっしゃいまして…」 「あぁ…。まぁ、病室からしてすでにあれだしな?」 「はぃ。それでこれなんですけど、何か抜けや追加事項、ありませんか?」 どうぞ、と身体を少し横に避け、山岡が日下部が画面を見やすい様に場所を譲る。 「うん~?なになに」 「当分は、通院で、まだまだ診させていただいて行くことになりますけど」 「うん。内容はいいと思う。けど、この書き方だと甘いかも」 「ぇ…?」 「あの人、放っておくと平気で無茶するんだ。特に仕事に関することはね」 「そうですか」 「だから、くれぐれもこれを守ってもらうためには…。もう少しきつめに書いちゃっても構わないよ?脅し…じゃないけど、あの人はこちらの意図の8割程度にしか受け取らないと思うから、ちょっと大袈裟に文面作っちゃおう」 じゃないと聞きやしない、と悪戯っぽく笑って、日下部が横からタタタンッと山岡のパソコンのキーボードを叩いた。 「ふふ、こんなもんでどうかな」 「ぇ、いゃ、ここまでは…」 「大丈夫。これくらい言って、まともに通院治療と退院後療養をしてくれるかくれないか、半々くらいだから」 「そんなにですか?」 「うん。退院説明でも、散々脅してやって構わないからね」 「はぁ…」 3割増しくらいで注意事項を言ってやって、と笑う日下部に、山岡は曖昧に頷きながら、日下部が作成した書類をポチッと上書き保存した。 「おっ、はようございますっ」 「ひぇ、遅刻寸前だよ、おはようございますっ」 不意に、バタン、がちゃっ、と、医局のドアが開いて、原と、中堅医師の井上が、それぞれ慌てたように飛び込んできた。 「あぁ、原先生に井上先生、おはようございます」 「おはようございます」 にこりと2人を迎えた日下部と、ペコンと頭を下げて挨拶を返した山岡の前髪に隠れた顔が、並んでいる。 その距離の近さから、直前まで2人で何かを話していたことがわかる様子に、入ってきた2人がビクリと緊張した。 「あ…えっと、まだお2人だけです?」 ぐるりと見回した医局内に、山岡と日下部の姿しかないことを恐る恐る確認した井上に、2人がきょとんと目を見合わせて、こくりと頷く。 「そ、そうですか。遅くなりました」 「いえ。でも珍しいですね、井上先生が始業ギリギリのご出勤なんて」 原はよくあるけど、と嫌味を忘れない日下部に、胡乱な原の目と、ポリポリと頭を掻いた井上の申し訳なさそうな目が向いた。 「すみません。出勤途中に、ちょっと渋滞に巻き込まれまして…」 「渋滞?」 「そうです。おれもっす。なんか、交通規制されてて…」 「って、きみは自転車じゃなかった?」 「そうですけど、チャリも歩行者もみんな通行止めみたいになってたっすよ?」 警察も消防もうようよ、と言う原に、日下部の怪訝な目が向いた。 「何かあったのかな」 「あ~、おれもこのままじゃヤバイ、遅刻するって思って、規制線の手前で回り道してしまったから、詳しくは分からないですけど…」 「僕も。なんか、渋滞の先の方が騒がしそうだな、とは思いましたけど、手前で曲がっちゃって」 「ですよね~。でも、救急車も相当な数、突っ走っていきましたよ?おれも、小耳に挟んだだけですけど、なんか、多重事故だとか、爆発とか。歩いてた学生が噂してました」 「事故?爆発?」 それならニュースになっているんじゃ、と日下部がポチリと医局に置かれているテレビをつけた瞬間、まさに、病院から少し離れた辺りの路上の光景が映し出され、警察に消防に救急、それから多くの負傷者でゴタゴタした事故現場が画面に広がった。 「っ、もしかして、これ…?」 「うわぁ…」 げっ、と目を瞠った日下部と、痛々しそうに眉を寄せた山岡の目が、テレビ画面に注がれる。 「なに…?劇物が漏洩?流出?それによって事故が起こって、爆発も…?」 マズいな、と顔を顰める日下部の目には、混乱する事故現場に、次々と立ち上げられていく救護テントや目隠しのブルーシートの光景が映る。 「相当数の負傷者が出ているみたいだぞ。これ、うちにも来るやつだろ…」 「そうですね。比較的近いですよね…」 覚悟を…と日下部が身体を起こしたところに、徐々に近づいてくるサイレンの音が聞こえた。 「ほら来た。これだろ…」 「うわぁ。うちじゃありませんように」 朝から救急はきつい、と両手を合わせて祈り始める原に、日下部が苦笑する。 「でも、事故だ爆発だだと、内臓損傷も多いだろうな」 「やなこと言わないでくださいよ~」 「と、言ってる間に」 プルルルル、プルルル、と鳴り響いたのは、医局の内線電話だった。 「うわっ、来た」 「はい、消化器外科、山岡」 げっ、と怯んだ原と、苦笑した日下部と井上の前で、真っ先にパッと素早く受話器に手を伸ばしたのは山岡だった。 「はぃ…。はぃ。消化器外科、処置可能な医師ですか…?はぃ、単独で今、3名です、はぃ…」 ちらり、と周りの3人を窺って、通話相手に受け答えする山岡を、日下部たちがごくりと見守る。 「腹部外傷…はぃ、成人男性2名、はぃ…」 日下部と井上に伝わるように、通話相手の言葉を繰り返して口に出しながら、山岡がコクリ、コクリと頷いた。 「ヘルプ?」 「はぃ。救急から、あるだけ手を貸して欲しいと」 「分かった。井上先生、山岡先生、下行こう。原先生は病棟と外来、光村先生にも連絡して、佐々木先生の出勤待って…あと、山田先生は当直だったっけ?まだ寝てる?」 「ぁ、朝は見かけませんでしたけど…」 当直室にはいなかったと答える山岡に、首を傾げながら、日下部は「まぁいいか」と走り出した。 「状況見て動こう。俺たち3人が抜けられなければ、外来2室にしてもらって…」 「はいっ」 「先行きます」 バタバタと、原に指示を飛ばしながら、日下部が医局を出て行こうとする。 そのときにはもう、医局の入り口にたどり着いていた山岡は、一声掛けて、そのまま医局を飛び出して行った。 「こっちは任せてください~」 「頼んだ」 「僕も行ってくるね」 山岡に続き、日下部、井上と医局を飛び出して行く後ろ姿を見送って、原が1人、ぽつりと残った医局で、ぼんやりとつけっぱなしにされたテレビを見つめた。 「わ~。DMATまでご登場だ…」 これは大事だな、とぽつりと呟いた原も、ブチンとテレビを消し去って、パァンッと気合を入れ、医局をゆっくり出て行った。

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