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第410話
テキパキと、互いが互いの処置を信じ、自分がするべきことに突き進む、信頼と腕を賭けたオペは、長々と行われた。
何度も何度もその手の中から零れ落ちて行きそうな命を、必死で必死で掬い上げる。
欲しいときに欲しい処置が施される。情報提供の声は尋ねる前に小気味よく上がる。
要求を飛ばす前から、先回りしてベストなタイミングで的確な処置を執り行う山岡と松島が手を組んだオペは、長丁場の末、成功の下に終わった。
「っ…」
そのオペ室内、山岡の前立ちに入り手を動かしながら、日下部はマスクの下で何度唇を噛み締めたか。
交わされる山岡と松島のアイコンタクトに、互いに背を預け、清々と実力を発揮する2人の姿に、震える指先と思わず歪む顔を、必死に堪えていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です、松島先生、日下部先生」
ばさりと、手術帽を脱ぎ去り、汗で湿った髪をぱさりと落としながら、山岡が松島と日下部をふらりと見上げた。
「最高でした」
「オレも…」
スッと手早く差し出された松島の手を、ゆるりと見下ろしながら、山岡がそれを取る。
「本当に、惚れ惚れするような手腕。あなたのお陰で掬えました」
「いぇ…。オレの方こそ。松島先生がいて下さったから、掬えたんです」
ありがとう、と微笑み合う2人を、隣で見つめる日下部の眉が、くしゃり、くしゃりと寄っていく。
「こんなに手応えが尽きないオペは、初めてでしたよ。まだ興奮が冷めません」
「オレも…。あぁ、この手に命を掴み止められているって、術中何度も感じました」
互いのお陰だと認め合う2人に、日下部の身体のどこかが、チリッと焼け付いた。
(これが、天才同士、か…)
正直日下部は、今回のオペは無謀が過ぎると思っていた。
オペ前は、術中死も覚悟していた。
(医師として、最高の技術と心構えを持った山岡のことを、心から大切に思っていたはずなのにな…)
いま日下部の中に渦巻くのは、その腕への憎しみと嫉妬と悔しさだ。
「っ…」
「ぁ、日下部先生も、前立ちありがとうございました」
不意に、パッと松島との握手の手を離し、ペコリと頭を下げてきた山岡に、日下部はにっこりと微笑んだ。
「うん。山岡先生も、執刀お疲れ様。素晴らしいオペだったな」
「ありがとうございます。いぇ…」
ふにゃりと微笑み、ズルズルと俯いていく山岡の、オペ後すぐのお陰で、前髪が上がったままになっている美貌をジッと見下ろす。
(あぁ、離れてよかった…)
きゅぅ、と眉を寄せて微笑む日下部の顔を、俯いたままの山岡が見ることはない。
『最初はみんな、天才だとか、逸材だとか…ニコニコ、チヤホヤしてくれたけど…』
ゆらり、と日下部の脳裏に蘇るのは、いつかの山岡の、悲痛な叫び。
『始めはちやほやしてくれるかもしれない…。でも、必ず日下部先生はオレが邪魔になる。オレを疎んで、嫌うようになる…』
(あぁ、あぁそうだ。今は憎いよ。その腕が憎い。俺が…俺だけが、ただ真っ直ぐにその腕に尊敬と敬慕を持っていたというのに…。今はっ、その腕さえなければと…。そんな腕さえなければ、海外から声が掛かることもっ、こんな、同じフィールドに立てない自分のことを悔しく思うことも、なかったのにと、思ってしまう…っ)
それは、出会いそのものすら否定しかねない、日下部の黒い嫉妬だった。
(よかった…。よかった、手放して…。おまえの側にいたままなら、おまえがひたすらに怯えてすべてを拒んでいたその言葉を、現実にしてしまうところだった…)
きゅぅ、と歪んでしまう顔を、日下部は必死で思い留めていた。
「それにしても、山岡先生。さすがですよね。海外からお声が掛かる理由が分かりました」
「いぇ…そんな」
ゆったりと、手術室前から歩き出しながら、松島と山岡が雑談を始めていた。
「でも、こんなに素晴らしい腕を持つ医師が、海外に持っていかれてしまうのは、うちの病院も消化器外科も、相当な痛手ですよねぇ」
居残る気はないんですか?と微笑む松島に、山岡は困ったように俯いて、こっくりと頷いた。
「そうですか。でも日下部先生も」
惜しいですよね、と笑う松島が、ゆっくりと日下部を振り返る。
「ぁ…」
その視線を追って、顔を持ち上げた山岡が、日下部の表情を捉えて固まる。
「まぁ、惜しいは惜しいですけど。山岡先生が、この先海外で活躍されるわけなので。それは喜ばしいことですよ」
ふわり、と微笑み、笑顔を返す日下部に、じわり、と何かの違和感が、山岡の心の中に広がった。
「そうですか。手放しで応援できる、と」
「それはそうですよね」
どこか挑戦的な松島に、日下部は鮮やかな笑顔で対応する。
その様子を見ていた山岡の、鼓動がドクッと跳ねた。
「っ、っ…」
(どうして、そんな目を…?)
日下部は笑顔だ。それこそ、一分の隙もない、完璧な笑顔。
けれども過去に散々自分が傷ついてきた山岡だからこそ、分かる。
人の傷や痛みにどこまでも敏感だから。その山岡の目に、日下部の苦しさと痛みにもがく瞳の奥の傷が見える。
「ぇ…ぁ、日下部先生…」
(ぇ?あれ…?なんだろう…。あれ…?)
ふわりと浮かぶのは、じくり、じくりと心のどこかを刺激する、小さな疑問。
「え?おい?山岡先生?」
ふるりと小さく震えた唇が、ひんやりと冷えていく。
「山岡先生?大丈夫ですか?」
きゅぅ、と苦しげな顔をして、ズルズルと俯いていってしまった山岡に、日下部と松島の心配そうな声が同時に向かった。
「おい、山岡先生?気分悪い?」
「山岡先生?」
まずいか、と両方向から差し出される日下部と松島の手に、ハッとした山岡は、小さく首を振って、顔を持ち上げた。
「ぁ…すみません、大丈夫です。なんでもない」
「でも…」
心配そうに目を細める日下部の目には、先ほどの苦しさはもう浮かんでいない。
(気のせい、だよ、な…)
「ちょっと、気が抜けました。かなり、緊張していた、オペだったので」
少し疲れただけだ、と微笑む山岡に、日下部と松島は納得したようにホッと力を抜いた。
「そっか。そうだよな。でも今?かなり時間差でくるんだな、山岡先生」
「なんか、今さらながらに成功を実感したみたいです」
「なるほど。僕はまだ余韻が抜けなくて、アドレナリン分泌状態です。これが切れたら、山岡先生のように、突然ドッと来そうですよ」
ふふ、と粋にウインクをしてみせて、優雅に微笑む松島に、山岡は曖昧に微笑んで頷いた。
「はぁ〜っ。これがまだ朝イチだなんて信じられない。だけど、そろそろ病棟に戻ろうか」
「外来も、混んでしまっていそうですしね」
消化器外科も脳外科も、何人かのスタッフが、救急のオペに駆り出され、抜けてしまっている。
いい加減、本来の業務に戻ろうと、日下部の掛け声で、3人はそれぞれ歩き出した。
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