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第411話
*
「山岡先生?…山岡先生?」
医局のデスクで、ペンを片手に持ったまま、ボーッと固まっている山岡に、ふと原が声を掛けた。
「山岡先生っ?」
「うゎっ、はっ、ぃ…?ぇ、ぁ、原先生…?」
不審そうに、耳元間近で呼び掛けられた声に、カラーンとペンを取り落とした山岡が、ビクッと飛び上がりながら、ようやく原に焦点を結んだ。
「原先生?じゃなくてですね…。大丈夫ですか?」
さっきからずっと固まっていますけど…と心配そうに眉を寄せる原に、山岡はふと壁際の時計に目を向けた。
「ぅえっ?あれ…?もうこんな時間…」
ぎょっと目を見開く山岡は、自分が認知していた時計の針から、20分も経過していることに驚いている。
「あまりに動かないので、置き物かと」
「ぁ、あ~、すみません。なんか、ボーッとしちゃって」
あはは、と照れ臭そうに笑う山岡が、取り落としてしまったペンをスッと持ち上げた。
「いえ…別に迷惑を被っているわけではないんですけどね。あまりに呼吸以外の生命活動をなされていなかったので…。大丈夫かな、と」
瞬きすら必要最低限でしたよ?と苦笑する原に、山岡も困ったように苦笑した。
「全然自覚してなかった…」
「あはは。なんです?そんなに微動すらできなくなるほどの難問です?その書類」
「ぇ?書類…?あ、あぁ、これ?」
トンッとデスクの上に広げた書類を指差して、山岡がコテリと首を傾げた。
「はい。ジーッとそれを見下ろしたまま固まっていたんで」
「あ~、いいえ。別に、この書類の内容に悩んでいたわけじゃないんです」
ぺらり、と手元の書類を持ち上げて、原に見えるように差し出して見せた山岡に、原の顔がゲッと歪んだ。
「英文…」
「ぇ…?あぁ、そう。これ、今度オレが行く予定の向こうの病院関係の書類なんだけどね」
「あ、だから英語」
「うん。やっぱり、オレ、すごいところに行くんだな~って」
「そりゃそうですよ。海外ですよ?」
「うん。それもさ、最高中の最高の環境なんだよね。医師に限らず、各国の精鋭を集めたスタッフたちが揃っててさ」
「うへぇ…」
「ER型救急、心臓外科、腫瘍内科…どれも日本よりずっと進んでて…。そして何より、移植医療」
「っ、そう、ですね…」
「うん。日本でだって、やれていないわけじゃないんだけれど。やっぱり件数からして、向こうの移植医療は圧倒的だよね」
「そうですね」
「最先端…。オレ、きっとすごくスキルアップして、より確かな手技を、この手に」
きゅっ、と拳を握り締め、期待に満ちた笑顔で微笑む山岡の、瞳の端に、少しだけ影が差した。
「っ…」
「山岡先生?」
「ぁ、いぇ…」
スッと書類を引き、にこりと微笑む山岡の顔に、ぱさりと長い前髪が落ちる。
「書類…。色々な手続きの書類がたくさんあって、ちょっと大変なんです」
あれもこれも、作成して光村先生に持って行かなくちゃ、と早口で言いながら、山岡は手元の書類に目を落としていく。
「そうですか…。あの、頑張ってください。おれに手伝えることがなんかあったら、なんでもしますんで」
「うん。ありがとう」
にこりと微笑む山岡には、なんの戸惑いもないように見える。
だけど。
(っ、っ…。痛、い…?)
チリチリと小さく肌を焦がすような、その、微かな違和感は何なのか。
後ろ髪をツンと引かれるような、僅かな胸の突っかかり。山岡はそれを奥に押し込め、そっと蓋をした。
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