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第412話

        * パチパチパチ。 病院特別棟、特別室の1室で、「退院おめでとうございます」の声と共に、ささやかな拍手の音が上がった。 「ありがとう。大変世話になったね」 「ご退院、おめでとうございます。まだ、通院治療は続けていただきますが、ひとまずのひと段落です」 「無事、術後合併症もなく、1か月クリアしたからね。退院はめでたいけど、油断しないで、この先、まずは5年を目指すことを忘れないで」 ペコリと頭を下げて請け合う山岡と、嫌味ったらしく目を細めて相変わらずひねくれた態度で退院を祝う日下部に、日下部千里がゆるやかに頷いた。 「分かっている」 「どうだか。仕事となるとすぐ無茶するんだから」 「ふっ、おまえが蹴り払った椅子に座らせる後釜も見つけ出さねばならないしな?」 まだ隠居できなくさせたのはおまえだ、とこちらもまた嫌味返しをする日下部千里と日下部は、どうにも似た者親子だった。 「ふふ、あなた。それくらいで」 「あぁ、そうだな」 「社長、ご退院おめでとうございます。こちらは、病院のスタッフ皆様から」 スッ、と脇から妨げなく、花束を差し出した秘書に、日下部千里がわっと驚いていた。 「なんだ?大袈裟に」 「それは、日下部先生のお父様なので…」 同僚としての気持ちだ、と代表して告げる山岡に、千里が薄く目を細めて、「ありがとう」と小さく呟いた。 「クスクス、うちの病院に、あわよくば投資してもらえたらラッキー、っていうメッセージ込みの退院祝いだって分かってる?」 「おまえは、な…」 どうしてそう意地悪く育った、と呆れたように虚空を睨む日下部千里に、日下部がシレッとしながら、クスクスと声を立てていた。 「だって、かのセンリグループの総帥様の命を繋ぎ止めた病院だよ?設備投資なり人員投資なり、あ、いっそ寄付って形でがっぽりつぎ込んでくれてもいいんだけど」 「この大病院が何を言う」 「お金はあって困るものじゃないよ」 「ふっ、おまえも随分と、私に似てきたな。だが…私の命を繋いでくれた一番の功労者は、そこの山岡先生だろう?」 「ぇ?はぃ?ぁ、いぇ、オレはなにも…」 ただなすべきことをなしただけだ、と首を振る山岡に、日下部千里の穏やかな目が向いた。 「きみの腕になら、いくらでも投資してやって構わないと思っているよ」 「いぇ、オレは、そんな…」 「本当に、ありがとう。きみの説得がなければ、私は今、ここにこうしていなかったかもしれない」 感謝している、と告げる千里に、山岡は困惑に視線を揺らして、コテリと首を傾けた。 「あぁそうか、なるほど…」 ふむ、と1つ頷いた日下部千里にも、山岡はきょとんと不思議そうな顔をしているだけだ。 「まぁ、きみが私の命を救ってくれたというのが、全ての事実だ」 「いぇ…」 「今後は…山岡先生は、海外だったな」 「ぁ、はぃ。まだ当分先ですけど」 「うん。まぁ、きみならば、きっと真っ直ぐに迷わず向こうでも元気にやっていくのだろう。頑張れよ」 ぽん、と山岡の肩に軽く触れ、日下部千里が穏やかに微笑んだ。 「千洋も。私の椅子を蹴飛ばして医師を選んだからには…最高の医師と呼ばれるような、凄腕の医師になってくれ」 「ははっ、努力するよ」 はいはい、と手を振る日下部に、日下部千里は苦笑しながら、ゆっくりと病室のドアの方に歩いて行った。 「では。みなさんも、本当にお世話になりました」 ぺこりと、とても優雅に鮮やかに、日下部千里が綺麗に腰を2つに折る。 大企業の総帥に向けられた最敬礼に関係スタッフたちが恐縮しながら、秘書と妻に付き添われて退院していく千里を、明るい気持ちで見送った。 「ん~っ、これで厄介事が1つ片付いたね」 「日下部先生…厄介事って」 父親なんでしょう?と苦笑する山岡に、日下部は大きな伸びをしながら、ひらりと白衣の裾を揺らした。 「だって、指示した服薬はすっぽかす、病室はオフィス化する。休めと言っても休まないし、仕事に夢中になりすぎて、検査室の予約に遅れること何度?」 あんな駄目患者、他にいないだろ、と苦言を漏らす日下部に、思い当たることがないでもない山岡は、困ったように苦笑して俯いた。 「ほら、否定できない」 「それは…」 「ふふ、でも、無事に退院してくれてよかったよ。清々する…と同時にさ、実はやっぱり、本当はホッとしているんだ」 「日下部先生…」 「あんなんでも、やっぱり父親なんだよね。うん、だから、ありがとうな、山岡先生」 主治医もお疲れ様、と頭を下げる日下部に、山岡はブンブンと胸の前で手を振りながら、ズリズリと後退っていた。 「クスクス、恐縮し過ぎだから」 「だって、オレは別に、医師としてできることをしただけで」 「それがどんなに有難くて嬉しくて、感謝してもしきれないことだっていうのがな、患者の家族側になって、分かったんだ」 「日下部先生…」 「だから、ありがとう。これは、あの人の息子としてのお礼」 「いぇ…。じゃぁ、その、退院おめでとうございます」 「うん」 ならばこちらも担当医として、と頭を下げた山岡に、日下部は鮮やかに微笑んだ。 「さてと。次は、例の同時移植の患者かなぁ?」 「そうですね。順調に回復していますし…」 「その前か後か…胆管がんのオペもあるよな…」 「はぃ…」 1人退院しても、すぐに次、次と、山岡たちの仕事に終わりはない。 「山岡先生、引継ぎは?順調?」 「えぇ、はぃ」 テクテクと、病棟に戻る廊下を進みながら、ちょうどたどり着いたホールのエレベーターのボタンに手を伸ばしながら、日下部がのんびりと階数表示灯を見上げた。 「海外…。住むところとかも、もう探し始めているの?」 「ぁ、それは、向こうのドクターが、いい物件を紹介してくれるらしくて」 「そうなんだ。あ、来た」 ふらりと隣に並び、同じように階数表示を山岡が見上げたところで、ポン、と音を立てて止まったエレベーターのドアが、スーッと静かに左右に開いた。 「どうぞ」 「ぁ、ありがとうございます」 サラリとしたスマートな日下部のエスコートに、山岡が身を縮めながら足を踏み出す。 階数ボタンを押し、ゆっくりと閉じていくドアを待って、エレベーターは静かに下降を始めた。 「あ、そういえば、この間緊急オペした患者」 「はぃ。脳外の方に入院されている患者さんです?」 「うん、その人。松島先生が、またこっちでも、診療情報入力しておいて、って言ってたよ」 「了解です。向こうのデーター、開けるようになってます?」 「あ~、うん。なんか、フォルダのパスワードが…って、聞いてたけど、悪い、医局だ」 置いてきてるな、と肩を竦める日下部に、山岡はふるりと首を振り、小さく頷いた。 「分かりました。また教えてください」 「了解」 ふっと笑った日下部が、請け合ったところで、エレベーターが目的の階に到着する。 「っし。じゃぁ山岡先生は、昼まで、病棟?」 「ぁ、少しインフォの資料を整理しておきたいものがあるので、どこかカンファルームに籠ろうと思います」 「そっか。俺は医局でふらふらしながら…あ、そうだ。例のパスワード、山岡先生の机にメモ貼っておくな」 「ありがとうございます」 スッと順番にエレベーターから降りながら、2人はそれぞれ歩き出す。 「今日は急患も呼び出しもなく、長閑だな」 「そうですね」 ふわり、にこりと微笑みながら、別の目的地に向かってテクテクと歩き出した2人の後ろで、ひらりと白衣の裾が揺れていた。

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